二. 見えない声と座敷牢

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 懐月はまどろみの海に揺れていた。
 意識は目覚めるでも眠るでもなく、しかし現に浮かび上がるには眠りに強く手綱を引かれ、後一歩のところで浮かび上がることができない。
 そんな不確かな午睡(ごすい)の時間は、肩に触れる手にゆっくりと終わりを迎えた。
 誰だろうかと胡乱(うろん)な顔をあげれば、すまなそうな千郷の顔と向かい合い、若干目が冴えた。
 何の用だろうか、と瞳をこすれば、
「昼食の時間ですので、お呼びに参りました」
 なるほど、と理解すれど声には出さず、懐月は立ち上がって身体を思い切り伸ばした。
 全身の骨が鳴るのに千郷は困り顔で居住まいを正す。
「睡眠を邪魔するのは申し訳ないのですが、今日は昼から少し所用がありますので昼食のことを考えればと起こすことにいたしました。どうかご容赦(ようしゃ)願います」
 起き抜けに深々と頭を下げられて、何がなにやら分からぬ懐月は冷水を浴びせられたように急に目が覚めた。
 きちんと千郷に向かい合い、髪がはねているのも気にせずに言葉を並べる。
「いえ。居候の身なので文句なんてあるはずもありません。それどころかわざわざ起こしていただいて感謝の言葉が適切かと」
 懐月自身何を言っているか理解せずに口にしていたが、意図は伝わったらしく、千郷はありがとうございます、と改めて頭を下げようとして、思いとどまった。
 二人で顔を見合わせ、笑う。
 別々にいく必要もないので並んで食堂へ行けば、無表情な顔を少し驚きに染めた御奏が出迎えてくれた。
 既にほとんど食事を終わらせていた彼女は、懐月が手をつけて数分もしないうちに手を合わせ、ご馳走様(ちそうさま)を言うと出て行ってしまった。千郷も普段であれば皆が食事を終えるまで残っているのだが、今日は食器は置いたままでいいと言い残してどこかへ出て行ってしまった。
 三日前までは常であったはずなのに、一人だけの昼食は味気ないものだった。
 食事を片付け、言われるがままに食器を放っておくことは気が咎(とが)めたので、懐月はキッチンに入って二人分の食器を水につけておいた。
 食堂に戻って片付いたテーブルに満足して、食堂を後にする。
 左を見れば結局入らずじまいのままの遊戯室(ゆうぎしつ)が見えたが、カードは一人ではできず、ビリヤードも一人で楽しめるほどうまいわけでも好きなわけでもない。
 となれば、やはりすることがない。そうなれば自然の流れで階段を上り、懐月はいつも通りに書庫へと立ち寄ろうとして、
「どうかしたんですか?」
 執務室(しつむしつ)の扉の前で、御奏(みかなで)がため息をついているのに出くわした。
 急に声を掛けられた彼女は驚き、どうしたものかと頭を左右へ惑わせる。
 書庫は懐月の向かう先であり、だが一階に逃げようとすれば彼の横を通り過ぎなければ階段へたどり着くことができない。そこまで確認してから、御奏は諦めたように視線を上げた。
「昨日のことは知ってるよね」
 思いのほか、大人びた口調だ。敬語でないのは敵意を抱かれているからかとも思ったが、声音に刺々しさは含まれていない。単に歳が近いというのが妥当らしかった。
 ならば懐月も口調を正す必要はあるまいと簡単に返事を返す。
「ああ。時間が取れないから、勉強を教えるのは今日に回すということだったか」
 御奏は頷き、
「でも実際は用事があるからって執務室に閉じこもって、結局今日も課題を与えられるだけ」
「採点くらいなら声をかければいいだろ?」
 懐月は当然のことを口にしたつもりだが、御奏は肩をすくめるとドアをノックしてみろとジェスチャーをする。
 言われるがままに手を揺らせば、
「すみませんー。今は駄目ですー」
 内側からは千郷らしからぬ死にそうな声が返ってきた。おそらく御奏がノックをしたと思っているのだろうが、それにしても疲れているのは間違いがなさそうだ。むしろ懐月だと分かっていれば彼女は疲れを隠そうとするだろう。
 一体何をしているのか気になったが、キーボードを叩くような音が聞こえてくるので何か計算の類(たぐい)だろうと懐月は当たりをつける。執務室にパソコンがないのは前に見た通りで、まさかこの屋敷にノートパソコンはないだろう。そうで考えれば電卓ぐらいしかない。
 更にそこから連想されるのは、懐月にとっては家計簿をつける主婦という光景だった。
 家計に苦労するということは予想外の出費という可能性もあり、つまり居候である懐月の影響が大きいのではないだろうか。
 当然ともいえる帰結にたどり着いた彼は全て予想に過ぎないということも忘れ、途端に青くなると、せめて彼女の負担を減らそうと心新たに御奏に向かい合った。
 事実は一部正解で一部間違っていた。
 家計簿をつけているのは間違いないのだが、千郷は数字嫌いで呻(うめ)いているだけなのだ。
 そんなことを知ろうはずもない懐月は、何とか御奏の勉学を助け、千郷の負担を減らそうと思案する。
 しかし勉強を見ようとすれば昨日の二の舞になることは目に見えており、かつ免疫のなさそうな反応から一緒にいるのは彼女にとって苦痛だろう。
 そうして悩んだ末に思い立ったのは、彼女が今持っているノートを懐月が採点するという結論だった。何ということはなく、昨日千郷が折衷案(せっちゅうあん)として提案したものと同じだ。
 その旨を告げると、御奏はやや迷ってから、
「それじゃあ、よろしく」
 思いきりよく、両手でノートが差し出された。冊子自体はどこにでもありそうな大学ノートで、名前もなければ教科名も書いていないシンプルなものだ。
 提案者の懐月はそれを受け取りながら首を傾げる。
「別に次の範囲をやればいいんじゃ……」
 言った後で思わず口を噤むが、はっきり聞いていた御奏は視線を横に逸らして呟く。
「千郷は忘れてるから」
 大学ノートを指で示すと、
「今回の範囲が終わらないと、次の範囲に入れないの」
 必要最低限のことを告げて、一息。
 確かに、独学で勉強した範囲の採点もなしに応用とも呼べる範囲を学び始めるのが危険なのは分かる。間違ったまま理解していれば大変なことになるからだ。
 千郷の教えてくれたことを反芻すれば勉強を好まない印象を受けるのだが、少なくともやるからには折り目正しくするようだった。
「それじゃあ、よろしく」
 同じ台詞を繰り返し、彼女は懐月の脇を通り抜けて階下へと消えた。まるで大学ノートが関所札だと言わんばかりだ。
 取り残された懐月は、かすかに、そして断続的に聞こえてくる千郷の唸り声を聞き流しながら、書庫へと移動することにした。彼の記憶によれば、書見台の引き出しには赤ペンがあったはずで、なおかつ雰囲気が採点をするのに好ましい。
 電灯をつけて書見台を照らし出し、ノートを置いて椅子につく。
 引き出しを確かめてみれば、いつかのペンとメモ帳に寄り添って赤ペンが顔を見せた。
 手に取り、ノートを広げてみる。
「……おお」
 思わず声が漏れた。
 ノートは文字の綺麗さもさることながら、問題文と解答の導出が実に分かりやすく配置、記述されている。まるで模範解答を作成せよ、と全ての問題に割り振られていて、その通りに回答したかのようだ。
 これならば容易い、とペンをとったが、いざ正誤を確かめようとすると不安がよぎる。
 論文のようなものはないかと席を立ち、書架に立ち入った懐月だったが、戻ってくれば両手にはその手の参考書が二、三抱えられていた。
 こんなものまであるのかと驚きながら、参考書片手に採点に取り掛かる。
 内容は数学の演習。とりあえず基礎的な例題を一通り固めておこうといった意図の見える問いの並びで、時折メモ帳に途中式を書き取りながら答えを導き出し、丸をつけていく。
 数問繰り返し、懐月は気付いた。
「……千郷さんに答えをもらえばよかったんじゃないか?」
 声に出してみれば、虚しさが増すばかりだった。
 今から聞きに行くのも迷惑だろうと諦めて、一種機械的な動作を繰り返す。
 懐月が全てのページを丸と注釈で埋め尽くしたのは、それから一時間を経た後だった。
 肩にたまった疲労に腕を回すが、仕事の達成感は彼の口元に笑みを形作らせる。
 時計を見れば夕刻という時間。思いのほか長引いたのは、久方ぶりに一般教養とでも言うべき科目に頭を働かせたからだった。使わなければ劣化するのは何でも同じだ。
 念の為最後に一通り自身の解答を見直して間違いがないことを確かめ、最終頁の右上当りに数字を書き込んでおく。
 勉強ばかりでは肩が凝るもので、懐月自身も徹頭徹尾(てっとうてつび)形式通りにこなすのは好きではない。
 たまにはお遊び心も必要で、あとは御奏がそれを解してくれることを祈るばかり。
 ちょっとした賭けを楽しむのもまた楽し。


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