窓の外は鉛でも流し込んだような鈍色で、降り注ぐ水滴には立ち止む気配もない。
相変わらずの天気はむしろそれが自然ではないかと思えるほどに景色に溶け込んでいて、懐月は奇妙に目覚めのよい朝を実感していた。
普段であれば寝足りなさにぼんやりとする頭も、春の海のように凪(な)いでいる。
上半身を起こした体勢のまま、今日もまた帰ることはできないのだろう、と妙に納得しながら、彼は皺(しわ)のよった衣服を整えた。
本来であれば千郷(ちさと)を待つほうがいいのだろうが、彼女がいつ来るか、ということには無頓着(むとんちゃく)であった懐月(かいげつ)には、どれくらい待てばいいのか計りかねる。
それならば逆に迎えに行くのも面白くていいだろうと詮もないことを思いつくのも、やはり奇妙なことではあった。
しかし得てして本人は気付かぬもので、懐月はそうと決まればと手櫛で髪を整えてドアノブを握れば、力を込めずともドアは手前へ押し寄せてきた。
何事かと慌てて身を引けば、鉢合わせるのは女中のお仕着せ。上に乗った顔はやや驚きを含んで、やがてふわりと笑みへ移り変わる。
「おはようございます。今日はお早いですね」
「おはようございます、千郷さん。おそらく慣れてしまったんでしょう」
それがいいことか悪いことかはわからないが、笑みで語るにはまだぎこちない。よって懐月は笑みに若干の苦味を添えた。
「今日もまた雨ですね。止む気配はありませんか?」
「ええ。予報でもまだしばらくは降り続くそうで」
「そうなると奥の部屋は危ないでしょう。大丈夫なんですか?」
え、と一瞬何の話か分かりかねるといった千郷ではあったが、やがて合点がいくと手を合わせ、安心させるように応えた。
「既に崩れるだけ崩れた、という感じですから。泥になることはあっても、二次崩落を起こすということはないですよ」
それよりも、と彼女は懐月を押し戻すようにカートを押し、
「その服、昨日と同じものじゃないですか。脱衣室にバスローブを置いておいたのですが、気づきにくかったようですね」
「……そうみたいですね。もうだいぶ眠たくなっていましたから、そもそも他に意識を割くのが億劫だったのかもしれません」
自分の服を改めて見やってから、懐月は肩をすくめてみせた。
千郷はそれで謝罪を飲み込み、いつも通りに微笑を浮かべ、
「それではいつも通り着替えと洗顔具を置いておきますので、お顔を整えて食事へいらしてくださいね」
いつものように外へと消える。言葉数は少なくなっているものの、それは親しさからくるもので、懐月に不快感はない。
食堂ではやはり御奏は始終無言のままで、懐月が呼びかけても首を縦に振るか横に振るかだけで、結局千郷と話をしながらの食事となった。
腹がふくれれば、彼の足はそれが当然であるように書庫へと向かう。
かなりの年月を経ても軋むことのない階段を上り、執務室に差し掛かったとき、話し声が耳を掠めた。
聞き覚えのない声に、懐月は足を止める。
普通に考えればそんなことはありえないのだが、一度気になってしまえば好奇心は蔦(つた)のように絡まって懐月を押し止める。
視線をさまよわせ、やがて無礼とは知りつつも懐月は耳をそばだてた。
わずかに聴こえてくるのは他愛もない世間話で、彼とて気に留めることではない。だがその内容が、既に過ぎ去って等しい時代を紡いでいれば話も変わる。
とある自動車会社が、今の時代戦闘機を作っているということはない。
特異な会話に夢中になった懐月は、ついドアに触れてしまった。
運が悪いことに、きちんと閉められていなかったドアノブに、扉は何の抵抗もなく内側へと静かに傾いていき、
──ぷつりと、断ち切るように会話の声が消失した。
空耳だと言えばそれまでだろう。たったの二、三言であれば懐月も納得できたに違いないのだが、彼は『会話』を聞いてしまっている。
確かめるようにドアを開け放てば、現実は当然のように誰もいないことを告げていた。
「馬鹿な……」
一番簡単な答えは懐月本人がおかしくなってしまったということだ。しかし彼はその答えに思い当たると、打ち消すように首を左右に振った。
「空耳だ」
言い聞かせるように断ち切って執務室を出る。
書庫に入って紙の匂いに包まれれば、どうにか落ち着きを取り戻すことができた。
本棚に立ち入って本を選別しながら思い出すのは、昨日のことだ。あの時も、誰もいない部屋から物音が聞こえたではないか。
しかしながら、物音と人の会話を同列として片付けられるほど、懐月は割り切りがよくも楽天的でもない。
並んだ背表紙に額を当てて、ため息をつく。
こうなれば忘れてしまおうと彼は顔をあげ、本を手にとると部屋へと戻った。無意識に駆け足になる自身に気付かないままに。
部屋に入るなり窓際のテーブルに本を落とし、椅子に深く腰掛けて大きく息をつく。
ようやく人心地ついてみれば、持ってきていたのはハードカバーがたった二冊。
どうやら思いのほか疲れているらしい、と懐月は瞳を閉じた。
眠りの世界へ逃避するのも、たまにはいいだろうと。
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