一. 遣らずの雨と土砂崩れ

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 黒の色を増した空は、まるで覆いかぶさってくるかのように圧迫感を増す。
 そういう時刻になると、見計らったかのように千郷が食事を告げに来るのだ。
 そのことを食事の友としながら皆で夕餉(ゆうげ)となったのだが、懐月は昼間に持ち出した連番(れんばん)の最後の一巻が気になり、早々に部屋に引き上げて本の虫となっていた。
 食事の時間にはほとんど懐月と千郷が話しているだけの場ではあるのだが、実は唯一全員が揃(そろ)うという稀有(けう)な空間でもあった。懐月にとってその場を去ることには千郷に対して多少の遠慮もあったのだが、書物への興味には勝てはしない。
 そしてその気がかりも、最後の頁を読み解いた後では心地よい疲労感の中に泡のごとく消えてしまった。
 何とはなしに外を見れば、雨の形すらも覆い隠す闇に遅い時間を連想させたが、風呂に入らずに床に就くということには抵抗のある懐月は脱力しながら迷う。
 夜半に他人の家を歩き回るのははばかられたが、部屋を見回すが、今更風呂場が見つかるということはない。
 このまま寝てしまおうかとベッドに歩み寄る懐月だったが、やはり一日の疲れを洗い流す湯の温かさへの誘惑には抗えなかった。
 部屋を出て、スリッパと足裏の立てる音をできる限り消しながら、突き当りの左へ。
 脱衣所で服を脱ぎ浴室へ入れば、やはり風呂の湯は抜いてあったので、懐月は洗い場からシャワーを手に取り、湯の温度を調節した。彼は熱湯が好ましいので、ほとんど水を混ぜることはない。
 やがて適温を頭からかぶれば、薬湯(やくとう)のように染み渡る。
 熱い湯は目をはっきりとさせるが、さりとて深いところにたまった睡魔を打ち消すまでには至らない。だが、それが懐月にはなんともいえず。
 ふう、と一息ついて身体を洗い、最後に全身を洗い流すのとは別に湯を浴びる。
 脱衣所に出て備え付けのタオルで水滴をぬぐい、着替えがないことに気付いたので同じ服を着直した。大して動き回ったわけでもないので一日くらいは大丈夫だろう。
外に出れば緩やかな冷気が頬を撫で、起きているとも寝ているともつかぬ心地に今すぐにでも眠れそうである。
 ついでにトイレを済ませて部屋に戻ろうというとき、視界の端に人影が映った。
 千郷であれば挨拶くらいはしておこうと思ったが、見えた影は腰までもある長髪がなびく姿で、千郷にも御奏にも該当しない特徴だ。
 夜になれば電飾の光量も抑えられてなおさら仄暗い廊下なので、見間違いだろうかと奥へ歩み寄ったのだが。
 覗いた廊下は障害物もなく、突き当たりが頼りなく影の中に浮かんでいるだけだった。
 ここでこの古めかしい屋敷にかけて幽霊だなんだと騒ぐこともできようが、眠気に視界さえも奪われ始めた懐月の頭はそれ以上に的確な答えを導き出す。
 ただの気のせい。
 幻に気を奪われるよりも、今の彼には家人を起こしてしまわないかという危惧(きぐ)が大きい。
 見えていたとしても千郷か御奏だろうし、突き当たりは二人の部屋のある場所だ。中に入ってしまえば姿が見えないのは当然である。
 わずかに寒気を感じた懐月は、湯冷めしては気分も悪いと部屋に入った。
 後に残されるのは、ただただ不確かなものばかり。


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