一. 遣らずの雨と土砂崩れ

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 やや薄暗い部屋の中、窓際の脚長な円卓に、数冊の本が積み重なっている。
 ペアになった椅子に腰掛けているのは仕事を放り出した執事、ではなく、執事の服をあてがわれた懐月だった。
 彼は足を組んで背表紙に手を当てた本の頁を繰り、書物の世界へと入り込んでいる。だがそれもあと数頁を残すのみ。やがて十分もすれば彼は顔を上げ、余韻に浸ってから本をテーブルへと置いた。
 ようやく半分。だが長時間本を読んでいれば疲れはたまり、喉の渇きに彼は水でももらおうかと席を立ち、身体を伸ばした。凝り固まった身体には思いのほか心地よい。
 時刻は、と考えて外を窺うが、雲に覆われた空では判別が難しいので室内へ。
 時計は昼に差し掛かろうかという時刻を告げていた。
 部屋を出て途中で右に折れ、一度トイレに立ち寄ってから、食堂を経由して台所へ抜ける。と、聞きなれた声が珍しく困惑の色を帯びて聞こえてきた。
「ですから、今日は用事が重なってしまって……」
 諭すように告げるのは千郷の姿で、懐月に背を向けているのは御奏だ。二人はなにやらもめているようで、意外にも御奏が何かを譲らないという形らしい。
 人の気配に気付いたのか、ふと千郷が顔をあげ、懐月と目が合った。
「あら。懐月さん。どうも、お恥ずかしいところをお見せしまして」
 笑顔を浮かべる彼女とは対照的に御奏は身体をこわばらせたが、頭だけを回して軽く懐月に会釈すると、すぐさま向き直って千郷に問いかける。
「なら、今日は本を読んでいるから」
「ですが継続は力なりといいます。課題を出しておきますから、どうかそちらを済ませてからにしていただけませんか?」
 その台詞に、懐月は多少の驚きを禁じえなかった。
 御奏の性格や持っている雰囲気からついつい彼女は真面目で勤勉だろうと決め付けてしまっていたが、人は見かけによらぬとは言ったものだ。
 千郷に御奏の言い分を聞けば、彼女は本を読みたいという。
(咲音さまは聡明(そうめい)な方なのですが、どうも誰かが勉強を教えてあげなければやりたくないようなのですよ)
 小声で説明して、何かに気付いたように彼女の口が止まった。
 懐月は不自然な態度に嫌な流れを感じたが、そういうときに限って時既に遅し。
 千郷は両手を合わせるとさも名案と言わんばかりに、
「そうです。懐月さんに見ていただ」
「お断りします」
 台詞を遮って、御奏が提案を固辞した。さすがの千郷もそうあっては柳眉(りゅうび)を寄せて黙ることしかできず、懐月に至ってはただ成り行きを見守るだけ。彼にとっては不都合はない。
 しかしあまりの反応に実は嫌われていたのか、と心配になる懐月だったが、
「すみません。今日は自力でやるので、採点は千郷に任せます。それでいいですか?」
「え?ええ。私としては、きちんと勉強してくれるのであれば文句は言いませんが」
 面伏せでの謝罪は千郷に向けられたものではない。懐月はひとまずその事実に胸を撫で下ろした。その頃には御奏本人はいなくなっていたのだが。
 千郷は仕方がないという風に彼女の出て行ったドアから視線を外し、懐月へと向き直る。
「それで、懐月さんはどのような用事でここへ?」
「ああ。水を一杯もらえたらと。どうにも喉が渇いてしまって」
「それでしたら清涼飲料水の類もありますが……」
 懐月はそこまで世話になるわけにもいかないと千郷の申し出を丁重に断り、コップ一杯の水を求めた。
 喉を潤しながら訊ねるのは、先程のことだ。
「御奏さんの教養はあなたが?」
「ええ、僭越ながら。他に時間の空いているものもおりませんでしたし、今となってはそもそも私ぐらいしか屋敷に残っておりませんので」
 千郷は確かに学識のある気配がにじみ出ていたし、主人は忙しそうだというのが懐月の印象なので、なるほどと頷ける。
「すごいですね。この広い屋敷の家事をこなしながら、なおかつ勉強までみれるなんて。並大抵のことではないでしょう」
 そんなことはありませんよ、とはにかむ千郷に、懐月はふと思い立つことがあった。
「ですが、彼女、学校へは?」
 普通であれば通る道のりだが、この豪邸に住むような住人はどうだろうか、という興味があったということを懐月は否定はできない。
 だがえてして下世話な好奇心というのは相手を不快にさせる。
 千郷の表情が曇ったのに、懐月は己の失敗を悟った。
「すみません。立ち入った話題でしたね」
「いえ。折角ですから、注意していただくためにもお教えしておきましょう」
 そう前置きして、まっすぐに懐月を見る。
「咲音さまはお身体を患っておりまして、ここから街のほうの学校へ出かけるのは負担になるんです」
 それから息を吸い、
「かといって街のほうへ住んでいただくにしても空気が悪いということで、お医者様からは止められていまして、八方塞なんです」
 少々、懐月には耳に痛い事実だった。それこそ赤の他人に近い彼がずけずけと踏み込んでいっていい領域ではない話であったためだ。
 後悔の気持ちから、自然と頭がたれた。
「申し訳ありません。事情も知らず、不躾(ぶしつけ)にものを訊(たず)ねてしまって」
「いいえ。先程も申しましたように、むしろ知っていただいておいたほうが、同じ場所に住むのであれば何かと都合もよろしいでしょうから」
 既に出て行かないことが前提になっていることが懐月には引っかかったが、負い目もあれば改めて話の腰を折る必要はない。
 懐月は押し黙り、埋め合わせるように千郷が問いかける。
「そういえば、懐月さんは今日はずっと部屋に?」
 懐月とて籠っていたいというわけではないのだが、御奏のことや、他人の家を歩き回るという据わりの悪さを考えればそうせざるを得ない。
 さりとて口に出して言うことではないので、
「暇なので」
 適当に言葉を濁し、彼は千郷と別れた。キッチンのテーブルには段ボール箱が数箱並んでおり、仕事を邪魔しているように思われたためだった。
 彼は暗がりの廊下を辿って文字通り部屋へと引きこもり、読み残した本を手に取る。
 残り数頁という塩梅(あんばい)だったので読破(どくは)するのにさほど時間はかからなかったのだが、
「……しまったな」
 どうやら今読み終えた本は連番だったらしく、それだけでは納得できない終わり方をしていた。知らずに持ち出した懐月の手元には、当然ながら続きはない。
 だからといって無視して別の本へと手を伸ばすことができるほど興味のない書物でもなく、懐月は仕方なく続きを求めて書庫へと足を運ぶことにした。ついでに読み終えた本は小脇に抱えておく。
 薄暗い廊下を抜けて階段を回り、二階の廊下を抜けて突き当たりの部屋へ。
 ドアを開ければ左右に広がる本棚の一端が見えるのだが、
「ん?」
 普段であれば暗がりにたたずむ本の列が、今は薄い橙の色に染まって懐月を見返している。
 扉が開ききり、書見台まで姿を現すと、弾かれたように先客が椅子を蹴り、台の上にあったことごとくを引っつかんで懐月の元へ、正確には横を通り過ぎてその後ろへと何かが走り抜けていった。最後には一礼もついていたのだが、果たして彼が気づいたかどうかという程度。
 こういった反応をするものは一人しかおらず、だんだんと過剰になっているのではないかとさえ思えるのには懐月といえども辟易(へきえき)としてくる。
 御奏を追った視線は宙を捉え、かといって外に出てまで彼女を見届ける理由が懐月にはなかった。そもそも首を曲げたのも反射的な行為だ。
 いつまでも部屋を開け放っているわけにもいかないので、ドアノブに手を掛けて、ふと外の景観が目に付いた。
 辺りは相変わらず雨が降り注ぎ、まるで陸の孤島に取り残されたよう。
 抜け出せない場にあっては確執を生みたくないというのが懐月の考え方だ。そもそも一つ屋根の下、噛み合う、とまではいかなくとも軋みをあげるほどにさび付いた空気が蔓延(まんえん)していては精神が参ってしまう。
 どうにかしなければならないな、と考えることに一抹の不安を覚えつつ、彼は当初の目的を果たすべく本棚の間隙へと姿を消した。


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