一. 遣らずの雨と土砂崩れ

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 とうとう懐月は丸一日以上を世話になってしまった。
 あの晩を除けば二日目の朝、懐月は寝台の上で身を起こしながら、額に手を当てて現状に焦燥を感じていた。見知らぬ家庭にいる、ということに対しての精神的な負担はとうとうなくなってしまったが、世話になっているということについてはやはり負い目を感じる。
 外は相変わらずの雨で、昨日の豪雨ほどでないものの、十分に帰途を遮る役目は果たしそうな勢いだった。
 そもそも家長の名誉のためだけに客を返さないというのは前時代的にも程がある。
だがその点を考慮したとしても特異な話のはずだ。
 まさか人食い婆というわけでもないとは思うが、と千郷と御奏の二人を懐月は思い浮かべたが、タイプは違えど二人にはあまりに似つかわしくなく、むしろ微笑ましささえ感じる。
 そんな失礼なことを考えていたため、届いたノックの音に懐月は大いに慌てた。
 別段心を覗かれているわけではないのだが、身だしなみを整え、一度深呼吸をしてからドアを開ける仕種はどこかよそよそしい。
 そんなことは露知らず、相変わらず春のように穏やかな笑みがカートを押して現れ、一言。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「ええ。今までの暮らしに比べればかなり上等なものですから」
 実際はむしろ落ち着けずに睡眠は浅かったのだが、気を利かせる術を知っている懐月は当然のように誤魔化(ごまか)した。
 無論気付かぬ千郷ではなく、少し笑いながら彼女もまた機微を悟り言葉を返す。
「それはようございました」
 礼儀的な挨拶はこの程度で、と懐月は気を抜いて、決まりごとのように外を眺めた。
「結局今日も雨ですか……。弱まる予定は?」
「この分だと望み薄かと。申し訳ありませんが、今しばらくご滞在ください」
「申し訳ないのはこちら側なのですが」
 ですから申し訳ございません、と苦笑する懐月に千郷は眦(まなじり)を下げ、カートを固定して一歩を退いた。相変わらず一寸の狂いなく部屋の外へと立っている。
「まだ不慣れとは思いますが、こちらの湯でお顔をお洗いください。着替えは……すみませんがこちらのものしかないので」
 苦笑しながらもどこか楽しさの見える顔に懐月は仕方なく笑みで返し、かといって納得できるわけでもないのでため息を漏らす。
 それすらも彼女は楽しそうに見詰め、
「では、本日も二十分後に朝食が出来上がりますのでよろしくお願いします」
そう言い残し、部屋を出て行った。
 千郷の退出に懐月はため息一つで気を取り直し、顔を洗い、のりの利いた服に袖を通して準備を終えると食堂へ。
くるぶしまで沈み込もうかという絨毯張りの廊下を抜けてたどり着けば、やはり御奏は既に席に着き、黙々と本を読んでいた。
 挨拶すれば会釈は返ってくるが、それだけだ。
 素っ気無さに少しの煩わしさを感じるが、懐月は首を振って打ち消した。いつまでも気にしていては身がもたない。
 席に着いて手持ち無沙汰な時間を室内の装飾で潰し、やがて食事が運ばれてくると、吸い込まれそうになっていた意識が本を閉じる音に呼び戻された。すぐに思考に没頭してしまう脳内に反省しつつ、懐月は千郷へと声をかける。
「お疲れ様です」
「いいえ」
 笑顔で並べられた皿の上に乗るのは昨日と同じく、一流ホテルで出されても違和感のないものばかりで、なんとなく確認したくて疑問が鎌首をもたげた。
「この朝食は、やはり千郷さんが?」
「はい。あの……お口に合いませんでしたか?」
 心配そうな千郷に慌てて首を振り、
「いえ、とんでもない。とても美味しいです。なんというか、毎日これだけのものを作ってらっしゃるなんて、敬服(けいふく)します」
「それこそとんでもないですよ。昔に勤めてくださっていた方々に比べれば、私の料理なんていうのは家庭料理の枠を出ませんよ」
「あー……そう言われると僕の立場がなくなるのですが」
 懐月とて一人暮らしをしていれば料理を作ることも多い。必要に応じて覚えたこととはいえど、普通に比べれば多少はできる部類には入れるとの矜持(きょうじ)もあった。
 千郷の言葉は、それを一撃で粉砕するのに等しい。
「す、すみません。そちらに注意を割くことが少ないので、よく注意されるのですが」
「気付けませんか」
 懐月はスープを飲んで一息。卑下することはないほどにできた人だと思うが、それを口に出せるほど彼は素直な人間ではなかった。
 その合間、照れを隠すために千郷は慌てて口を開ける。
「それで、本日はどういたしますか?」
「そうですね。相変わらず本を読んで過ごそうかと」
 千郷の呼びかけに御奏が肩を震わせたが、懐月はあえて気にしない。気を割いたところで彼にはどうすることもできず、書庫から本を持ち出して部屋に引きこもればいいか、と妥協案(だきょうあん)を頭に浮かべる程度だ。
 だからそのまま口にした。
「それで、本を書庫から持ち出そうと思うのですが、大丈夫でしょうか?」
 あれだけの蔵書数だからてっきり図書館と同様の手順を踏まなければならないとさえ考えていた懐月だったが、
「返すのであれば持ち出してもかまいませんよ」
 千郷が稚気(ちき)を含んだ笑みで告げるのは、彼の心配が杞憂(きゆう)であるという示唆だ。
 懐月はまさか、と笑うと、
「確かに魅力的ですけど、盗むなんてことはできるはずもありませんよ」
 しかしそうと決まれば話は早い。
 懐月は食事を手早く終えて席を立ち、食堂の出入り口をくぐった。最後に室内を一瞥(いちべつ)してみると、御奏はいつの間にか無言で自室かどこかに戻ったようだった。
 玄関ホールに出て螺旋階段を上れば、それだけで雰囲気が一変する。理由はその明るさだ。
 一階の廊下には窓が一つも取り付けられておらず、埋め合わせをするように二階には窓が並んでいるために見通しがよく明るいのだ。
 わずかだというのに自然の光はこうも眩しいものか、と一度目を細め、書庫を目指す。
書架に並ぶ本は尽きることを知らないように広がっており、蔵書に不自由することはなく、程なくして彼は両手に数冊の戦利品を抱えて部屋へと引き返す。
 形の異なる本は重ねると抱えにくいが、気分のいい彼にとってはなんら苦にはならず。
 ───ことり、と。
 微かに物音が聞こえた気がして、彼は足を止めた。
 執務室。常時であれば主人の仕事場になっている場所だが、今使われる理由はない。
 奇妙に思ってドアをノックし、数秒待って一声。
「誰かいますか?」
 反応はなく、躊躇(ためら)いがちに押し込んだドアはスムーズに道を譲り、部屋が無人であることを教えてくれる。
 空耳かと首をひねれば、またことり。どうやら隣室、主人の部屋から響いた音らしい。
 謎が氷解した。大方自然に物が落ちてしまったのだろう。
 理論付けができれば懐月の中にあった興味は霧のように霧散し、両手の書物に集中してしまう。元よりさほど食指の動くものでなかったということもある。
 何事もなく一階へ戻ると玄関ホールを歩いている千郷の姿が見えたので、彼は一応、主人の部屋で何か物音がした旨を伝えた。
「そうですか。ありがとうございます。掃除も残っておりますので、ついでに確かめてまいりますね」
 なんら変わることのない会釈だったというのに、見送った懐月は数歩歩き、どこか不自然さを感じて首をひねる。
 刹那(せつな)の間、彼女の表情が隠れていたその間に、いかなる色が彼女の顔を染めていたか。
 まさか主人が戻ってきたわけでもあるまい。そうであれば一声かけることがあってもいいだろうし、かといってまだ他に住人がいるということもない。
 今更ではあるが、彼は千郷についていき、原因を確かめておくべきだったと後悔する。何故そう思うのか、その考えにすらも違和感を覚えながら。
 気付けば、両手に抱えた本には一抹(いちまつ)の煩(わずら)わしさがのしかかっていた。


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