一. 遣らずの雨と土砂崩れ

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 千郷の言うように、書庫は暗がりに包まれて茫洋と広がっていた。
 立ち入った先の壁には書見台(しょけんだい)が添えてあり、そこから広がるようにして、両側には本棚が立ち並んでいる。
 照明は書見台の背中の壁に二つ、それから本棚の間々に一つずつ取り付けられているが、ドアの横に取り付けられたスイッチは書見台裏の二つのみに反応し、それ以外はそれぞれの電灯の下にあるという徹底ぶりである。
 懐月は何冊かを気の赴くままに抜き取り、書見台に運んで席に着く。真正面にドアがあるのは落ち着かないが、肺腑(はいふ)の奥まで息を吸い込めば、古びた紙の芳香が薄く染み渡り、本を読む上では瑣事(さじ)となる。
 それから頁(ページ)を手繰(たぐ)り数刻、やはり本はいい、と懐月は一人ごちた。
 時間つぶしになり、興味と好奇心を押さえ込めばいつでも中断することができ、本の数だけ存在する世界は読み手を飽きさせることがない。
 最近は活字離れが顕著(けんちょ)で、また読まれる本には自己啓発本(じこけいはつぼん)が多いような気がしている懐月にとって、ここは本当に理想郷だと言えた。
 何しろほとんどの本が一つ昔に読まれていたようなものばかりで、書見台に積まれている本もハードカバーや文庫本には古典文学と称される類の題名が並んでいる。
 一冊を読み終えて、次に手を付ける。
 やがて闇をゆっくりと払うような、艶やかな薄明かりに照らされて、右に積まれたものと左に積まれた本の高さが近くなってきた頃、急にドアが鳴った。
 顔をあげれば、何事もなかったように沈黙したままのドアがある。
 だがしかし、と考えて見詰めていれば、壁は扉の形に光の筋で切り取られ、雨の音、そして黒瞳が室内に姿を覗かせた。
 目が合う。
 中々相手は足を踏み入れず逡巡しているようだったが、必要な本があるのか、しばらくして諦めるように少女が姿を見せた。御奏だ。
 彼女は黙ったまま懐月を気にするように本棚の森へと消えたが、しばらくして姿を現しては次の列へ、と繰り返し、やがて全てを確認し終わると、書見台へと目を留めた。どうやら懐月の選択した本の中に、彼女が求めるものがあるらしい。
 このまま放っておくのも気の毒だとは思ったが、
「あの」
「……!」
 懐月が呼びかけたところで、御奏は自分をかばうように胸に両手を当て、数歩を後退(あとず)さるだけだった。
 どうしたものか、と考えなしに書見台の引き出しに頼ってみれば、タイミングよく顔を覗かせたのはペンとメモ用紙だ。
 くもの糸を見出した心境で転がってきた両者を手に取ると、手持ちの文庫本を閉じてから台に置き、席を立つ。
 彼が動けば間にある空気が押し寄せてくるとばかりに御奏も距離をとるが、懐月はその空気をゆっくりとかき分けて進んでいく。
 やがて数歩の距離に達したところで立ち止まり、手に持ったものを差し出した。
 御奏は一瞬呆気にとられたようだったが、彼の意図に気付くと氷のようなこわばりを溶き、ペン、それからメモ帳を受け取った。
 紙面に滑らせたペンが書き記すのは、見覚えのある文字の並びだ。
 文庫本というよりはむしろ専門書に近い内容だったので懐月は関心の中に一抹の驚きさえ感じつつ、書見台の既に読んだ本の中から一冊を抜き取る。
 差し出せば、御奏は猛獣から受け取るかのごとく奪い去るように本を受け取り、残された腕は所在なげに浮かんでいた。
 懐月はさすがに少し苛立ち、腕を下ろして背を向けようとして、
「……」
 御奏が本を抱き、頭を下げるのを目にした。
 礼が宙を震わせることはなかったが、上から下へかき乱された空気は、懐月の苛立ちを吹き消すには十分だった。
 勘違いに後ろめたさと恥ずかしさを感じて思わず視線を逸らし、重ねた失態を悟るが、既に彼女は部屋にはおらず、助かったやら素っ気無いやら複雑な思いが胸の裡にわだかまった。
 だが嫌われているわけでも、礼儀を知らぬ相手でもない、というのが分かっただけで収穫だと懐月は書見台の座席に腰を下ろした。
 台の上の文庫本を手に取り、頭の中から頁数を引き出して、紙を繰る。
 書物の終わりまでの時間を置いてから、再びドアが来客を告げた。
「どうぞ」
 ノックの音に顔をあげて返事を返せば、扉からはカートが滑り出してくる。続けて現れるのはまだ違和感の残る女中服だ。
 千郷は本から手を離した懐月に歩み寄ると、カートを止めて布を取り去る。
「喉が渇かれたかと思ってお茶をお持ちしましたが、いかがでしょうか?」
「ああ。わざわざすみません」
 台の隣に寄せたカートに乗せたカップが紅茶を蓄えていくのを眺めながら、懐月はどうやって二階までカートを持ってきたのだろうと疑問があったが、当然二階に置いてあったカートに乗せて持ってきたと考えるのが自然だ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 くだらないことに頭を使う自身に苦笑して、カップに視点を合わせれば輪郭(りんかく)が怪しい。思ったより目を酷使していたことに今更ながら気付かされた懐月であった。
 目をほぐしてから、痛みが引いたのを確認して懐月は紅茶を口にした。
「面白い本は見つかりましたか?」
「ええ。興味深いものばかりで、分野が異なるからこそ楽しいですね」
 本当はただの暇つぶしだったが、年頃の男としては見栄の一つも張りたいものと口を滑らせるが、見透かされたように微笑まれては気恥ずかしさが湧き立つばかり。
 彼女もまた休憩に入るらしく、周到に用意された二つ目のソーサーを持ち上げ、手に取ったカップを口につける。飲み方一つをとっても懐月と異なっているのは場に馴染んでいるのと、そもそも育ちが違うためか。
 懐月も負けじと何とか様になるよう努力するが、
「熱ッ!」
「大丈夫ですか?」
 慣れないことをしては余計に情けないことになるだけだと、千郷に心配されながら分相応という言葉を知った懐月であった。


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