落ち着きを取り戻した冬華は疲れきった吐息を漏らし、しかし晴れ晴れと微笑んだ。
「それで、この話はおしまい?」
「ああ。けれど最後に、屋敷の話がある。ただこれについては記述が曖昧(あいまい)で……」
失言に気付いた懐月が慌てて口を閉ざすのも既に手遅れ。冬華は一度考え込むと、実に楽しそうな瞳になって彼を覗き込んだ。
さすがに誤魔化すこともできまいと諦めて、懐月は両手を挙げる。それからばつが悪そうにポケットから手帳を取り出し、とある頁(ページ)を開いて冬華に差し出した。
書き込んであるのは考えをまとめるのに使ったらしい散文で、館=両親(冬華を保護)、それに添えて、我々には役割、と記されており、そこから線を延ばして娘には家族を?と書かれている。
懐月の解釈は、両親は冬華を守るために館という形をとり、なおかつ住人に家族としての役割を与え、仮初とはいえ彼女に家族を持たせようとしたのではないか、というものだ。
真実は分からない。だが、懐月はそれでいいと思えた。
冬華は懐月に手帳を返そうと手を伸ばすが、
「それは、君がもらうといい。父親からの、プレゼントだから。気が向いたら母親にも見せてあげてくれ」
「……そう。わかりました」
受け取る気のない懐月に腕を引いて、そっと胸にかき抱いた。
彼にとっては、冬華という娘に与えられる唯一のものだっただろうから、そうしてくれれば少しは報われるだろう。
「これで、全てが終わったな」
ようやく、と懐月は全身の力を抜き、その場に座り込んだ。程なくして、耐え切れなかった上半身も倒れこむ。
もう限界だと言わんばかりの様相に、冬華は目を丸くして、それから悪戯っぽく微笑んだ。
「明。悪いのだけれど、まだ一つ残っているわよ」
「まだ何か隠れているのか?」
懐月としては遊ばれているのだろうという程度の軽い気持ちだったのだが、冬華はからかうのをやめて、冗談交じりではあるものの、咎める口調で問いかけた。
「あなた、他人の詮索(せんさく)をそれだけしておいて、自分だけは誤魔化して逃げるつもり?」
冬華は立ち上がり、いつの間にかなくなっていた木の柵を越えて、懐月の前に座り込む。
話すために、懐月は何とか身体を起こした。
「それは──」
「これだけ奥深くまで踏み込んだのだもの。今更この屋敷の住人じゃないなんて言い逃れは通用しないわよ」
言葉を遮って問い詰める冬華に、懐月は参ったな、と頭をかく。
「別段楽しいものじゃないぞ」
「私の話もそうでしょう?」
念の為、とあわよくば、の気持ちを込めての最後通告も、少女の好奇心には敵わなかった。
今更だな、と腹をくくって、彼は話を始めることにした。
「逃げてきただけだよ」
簡単な話だ。
幼くして両親をなくした懐月を、ある親戚の一家が引き取ったという、ただそれだけのことだったのだ。
懐月が不幸だったのは、一つのこと。
「親戚は俺を歓迎してくれやしなかった。毎日毎日、まるで俺がどれだけはけ口にしてもいいずた袋だとでもいうように、殴られたし蹴られたしなじられた」
だから高校に上がる前に、家を出た。そもそも高校には行かされず、就職させられて湯水のように働かされ、稼いだ金を巻き上げられるのは目に見えていたから。
「幸い家事を全てやらされていたから、金さえきちんと稼げれば苦労はなかった」
生きていただけだった。本当にただそれだけだった。
そしてそれさえも、奪われた。
「親戚は俺を見つけ出した。あれだけ嫌っていたはずなのに、いなくなった途端に探し出すんだからふざけてるよな」
捕まって、またあの日々に戻るのは嫌だった。
「俺は家を飛び出したよ。生きていることだけで沢山だったんだ」
それから少しは考えて何とか昔の伝手を辿っていったのだが、一度警察に世話になった身ではどこも迎え入れてくれることはなく、
「気付いたら、雨に濡れて道路を歩いてた」
ふう、と一息ついて、懐月は肌を撫でる。まるで痛みを感じたかのように、強くではなくいたわるように。
「それで死のうと?」
問いかける冬華に、懐月は頷く。
「けれどあなたは私に教えてくれた。現実を見ていなかった私に、現実を教え、その上でどうするかは教えずに。そんなあなたが、逃げるというの?」
「───は」
ああそうか、と懐月は思った。
「生きなければならない」
口にすれば、意思も宿る。言霊というのはそういうものでもあるのだから。
足に力を込める。もう動かないとさえ思っていたものだが、確かに懐月はその両の足で立つことができた。
ならば、歩けばいい。
「戻るよ」
声をかけられ、冬華もまた立ち上がる。白い紬の裾をはたいて、
「気をつけて。帰りはきっと大丈夫だと思うけれど、私は外の事は分からないから」
「ああ」
懐月が背を向ければ、見えるのは玄関ホール。慌てて後ろを振り向けば、冬華は階段に寄り添うようにして懐月を見送っていた。
安堵して、彼は外へ。
玄関のドアに手を掛けて、思うのは見送る少女のこと。
懐月にとっては、初めてできた友達だ。
二度会えるだろうか。不安は回したノブを押すことができないという形になって現れた。
何度も未練がましいものだと思いながら、懐月は首を傾げた冬華と向き合って、躊躇(ためら)いに口ごもりながら提案した。
「冬華。君も一緒にこないか?」
浮かぶのはぎこちない笑顔。それでも、彼にとっては精一杯の笑みだった。
冬華はそれに微笑みで返す。懐月の表情は安堵に緩むが、
「駄目よ。私は、まだ何もできていないもの」
答えは、意志を貫くための拒絶だった。
懐月は、思わず言葉を無くす。
「そんな顔をしないで。私に両親のことを教えてくれたのはあなたよ。なら、私はそれを受けて考えないといけない。勝手に家を出て行くなんて、それこそ親が許さないでしょう?」
それは、彼女なりに考えた末の結論。
懐月が思っているよりも、冬華はきちんと生きている。
ならば自分も生きよう。懐月は伸ばした手を握りこみ、持ち上げた。
「それじゃあ、冬華も元気で」
「ええ。あなたも、怪我や病気には気をつけて」
お互いに手を振って、背を向けた。
懐月は苦難待つ外へ。冬華は後悔座(ざ)す内へ。
選んだ道は違うが、彼には外の明るさが、彼女には両親の温もりが待っている。
願わくば、彼らの道行きが幸いに満たされんことを。
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