かれこれどれだけの時間を歩き続けたのか。
足は棒のように感覚もなくなって、ただ身体を支えるためだけに引き摺り、前に落とすを繰り返すだけになった。
腕は身体を支えるため壁に押し当てて、果てのなくなってしまった廊下を懐月は黙々と進み続ける。
所々にドアはあるのだが、通じているのが斜めに傾いた部屋、上下が反転した部屋、ずれて重なったために歪んでしまった部屋、あるいは廊下が続いている、というのであれば足を踏み入れることさえ馬鹿らしい。
そしてそんなことが続けば、ドアを開けることさえも同じだ。
懐月は汗ばむ掌をズボンにこすりつける。
空気は水の中を進むように重くまとわりついてきて、目的地がないという事実は身体ばかりでなく神経までも磨り減らす。
転がっていた胸像に足を引っ掛け、ついに膝が折れた。
まずい、と思ったが、身体は懐月の命令を無視して倒れこみ、絨毯に抱かれる。
全身に染み渡る疲労感が心地よく、何より動かないということがどれほど楽かと身体は懐月に訴えるのだが、彼は膝に再び力を込めた。
足は無理だと震えながら、視界は徐々に元の高さへと上がっていく。
だが、あまりに重い。
腕は重く、足取りも重く、頭は頭痛に蝕まれ重く。まるで空気が鉛に変貌したようで。
「だが……!」
一喝に、瞳に力が戻る。
ここで倒れれば確かに苦しむことはない。
しかし休むことが救いになるかと言われれば、断じて否である。
逃避という欺瞞(ぎまん)、自己に巣食う底なし沼から身体を引きずりあげていく。
諦念(ていねん)を拭い去り、手を伸ばし、壁を支えにして一歩を進んだ。足を引き摺(ず)り、身体の重みさえも糧にして、二歩を刻み込んだ。
全身の関節が重さに軋みを上げるが、その重さもまた必然だ。
それは彼がここに至るまでに犠牲にしたものの重み。二人の思いを潰すだけの想いをもってここまで来たのだ。
ならば、どんなに重くとも、どうして進めた足を退けられようか。伸ばした腕を、下ろすことができようか。
為そうとするならば犠牲を。犠牲にするならば、償いを。
その強固な意志に耐えかねたように、彼が確認のために扉を開いた直後、前が、後ろが、右が、左が、上が、下が、あらゆる形がたわみ、瓦解(がかい)した。
屋敷を支える全ての楔(くさび)が負荷に耐えかねたように、あらゆる部品が崩折(くずお)れて、てんで出鱈目(でたらめ)に繋がっては離れを繰り返し、その中で、懐月はその目にいつか見た板張りの廊下を見た。
向かうべく、足場のない浮遊感に包まれながら、彼は足を起こそうともがく。だが、
「ッ!」
世界が揺らぐ。彼が重心を移したことで均衡(きんこう)が失われたとでも言うように、家財の奔流(ほんりゅう)が懐月に飛び掛る。
だが不思議と彼の胸中に恐怖はなく、ただあれがぶつかれば死ぬだろうという事実のみが漠然と頭の中を巡っていた。
吹き飛ばされる。
だが身を打つはずの痛みはいつまで経っても彼を穿つことはなく、衝撃は上からでなく下から突き上げるようにして襲ってきた。
上半身を起こし、それでようやく自分が吹き飛ばされたのだと理解が浸透する。
続くのは何故、という問いかけだ。
意識が視界と焦点を結べば、初めて見る姿が、半身を瓦礫(がれき)に潰されていた。
目が合うと、彼は身体が潰されていることも気に留めず、笑った。
「全て、というのはおこがましいか。──だが、君には私の知りうることを教えよう」
その声は、何度も聞いたもの。あの女中が、切に求めたものだ。
歩み寄ろうと立ち上がる懐月に、屋敷の主人は声をかける。
「私は元々学者でね。一度この屋敷を出たのだが、興味が尽きず戻ってきてしまったのだよ」
それから主人はわずかに身じろぎして、顔をしかめる。茶色のスーツから血が滲むことはないが、完全に潰されているのは傍目に分かりやすい。
確実に死ぬ。いや、おそらくあの二人と同じなのだろう。
近寄って膝を折った懐月に、主人は首を振る。
「まあ、私のことはどうでもいいな。兎に角私には血族という地盤があり、故にこの館を調べるのは容易だったよ」
「──何故ですか。彼女は、あなたを望んでいた」
全てを無視した、咎める意思さえ含んだ問いかけに、主人は少し物思いに耽(ふけ)ってから、こう答えた。
「これもまた、私に与えられた役目の一つだからだよ」
懐月が不可解から眉間に皺(しわ)を寄せるのを楽しそうに眺めて、主人は続ける。
「だがさすがにこのままでは報われん。よって君に恩を売ろう」
そう言って主人は自由な方の腕を懐に突き入れ、力を込めて何かを引っ張り出して膝立ちの懐月に放り投げる。
受け取ったそれは、
「……手帳?」
「ああ。それが私の売る恩だ。君にその気があるのなら、死ぬ気で返してくれ」
では、と主人が言うのに幕切れにして、二度崩れた瓦礫が彼を飲み込んだ。
また、人がいなくなる。
いくばくかの時間をかけて自失から意識を取り戻した懐月は頭を上げ、黙祷(もくとう)して、最後に残った手帳を繰り開く。
内容は簡単なもので、得られる情報をしかと脳に刻み込んでいく。
最後の頁に書かれていたのは彼への追伸(ついしん)で、こう殴り書かれていた。
現実というものを思い知らせてやるといい、と。
もう一つは、もういない彼女への伝言で、だから懐月は目を通さない。
手帳を閉じた。
立ち上がり、足場の分からぬ暗闇から廊下へと足を乗せると、足元の確からしさに元気付けられる。
懐月はどこからか月明かりの差し込んで淡く映し出される廊下を見て、ああ、今は夜なのだなと実感する。
白い姿が見えて、足を止めた。
「いらっしゃい」
少女は顔をあげて青年に笑みを送り、青年は少女を見下ろし苦笑する。
たどり着くまでに、精神はずいぶん疲れてしまった。
「では、答え合わせをしようか」
ポケットに差し込んだ手が触れるのは彼の手帳。何かを誓うように、懐月は一度瞳を閉ざして、言葉を紡ぎだす。
「まず、簡単なところからいこうか」
「それは誰?」
「人形の彼女だよ」
消えてしまった人形はどこへ行ったのか。そんなことを考えながら、懐月は思い出す。
「彼女は単純に、生を得たからこそ消えた。彼女に命を吹き込んだ存在が、自ら動いた彼女に満足したためだ」
冬華(とうか)は何も言わない。ただ先を促すように、微笑で懐月を見守った。
だから懐月は続きを織る。屋敷の人々の作り上げるタペストリを作り上げていく。
「ただ目的のために生きた彼女は、己と向き合い、騙(だま)すことをやめたから消えた。彼女は自分がいくら足掻こうと目的を果たせないという事実から目を背けていたから」
そして、
「屋敷の父親という役目を与えられた彼は、その役目を果たすために消えた」
「あなたは、その答えで満足?」
「ああ」
「それなら。ええ。お疲れ様。そして、よくできました」
軽く拍手を送り、冬華は瞳を閉じる。
数秒ほどだったろうか。その表情には、懐月には決して感じ取れぬものがあった。
瞳を開けた少女は、これで終わりにするように問いかける。
「それで、あなたはどうします?」
「君は終わったつもりでいるかもしれないが、まだ答え合わせは終わってはいないよ」
話を決着させようとする冬華に苦笑して言ってから、懐月は口を閉ざす。当ててごらん、とこの会話を楽しむ風に。もちろん回答権は一つだけ。
冬華は頬に指を当てて首を傾げると、
「姿のない声であったら──」
「ハズレだ」
懐月はようやく彼女から主導権を奪えたことに笑みを浮かべる。
「答え合わせはここの住人のことだろう。だから、残るは君だけになる」
意図を掴みかねて、どこか不安げに瞳を揺らす冬華に、懐月は座敷牢の柵を手で小突きながら問うた。
「君はどうしてここにいる?」
「それは、閉じ込められているから。これはそのためのものでしょう?」
彼女もまた、木の感触を確かめるように柵を撫でる。
「どうして君は閉じ込められている?」
懐月には分かっていたこと。だが、それを既知(きち)として話すのは彼女に対しての不義(ふぎ)となる。
だからこそ、彼女の顔が自嘲(じちょう)に歪められようと、懐月には訊(たず)ねる必要があった。
震えを押し殺すように硬く、声が放たれる。
「家族が、私を見捨てたから」
奥歯を食いしばり、懐月はそうか、とだけ、震える声で搾(しぼ)り出した。
手帳に記述される彼女の生い立ちは、生まれてすぐにここと同じような座敷牢に閉じ込められて過ごしたというもの。
だが、懐月はそれ以上に酷い結末を、彼女自身の口から言わせなければならなかった。
「それは、どういうことだ」
問いかけにならなかったのは、できれば彼女に口をつぐんで欲しい、そしてこの手帳のことを全て教えてしまいたい。そんな衝動に駆られたからであったが、
「そうね」
冬華は話し始めようとしていた。
「私はこの通り白い肌と赤い目を持つから、生まれた直後、忌(い)み子(ご)として捨てられました」
覚えているはずはない。だが、後に聞かされたとすればどれだけ残酷な事実だろうか。
「この屋敷ではいわば繁栄の象徴である出産後、すぐに子供を殺すことは許されていなかったのよ。いくらそれが忌み子であろうと。だから成長してから私を殺しに来たのでしょう。あの両親は──」
間引(まび)きを肯定する言葉を受けて、懐月のほうが深い傷を受けているようだった。
冬華はむしろ純粋に微笑みさえ浮かべて、仔細を述べる。
「閉じ込めるだけ閉じ込めたら、親族一同を案内して、私の胸を突き刺した。冷たくて、痛いというよりは身を切り裂く感触のほうが鮮明だったかしらね。そのときの真っ赤な色は、今でも目に焼きついているわ」
これでおしまい、と口を噤(つぐ)む冬華はふう、と軽く吐息し、懐月は重い、よどむような息をふう、と吐き出した。
「それにしても、答えあわせというのはおかしいわ。全て私に言わせているじゃない」
それは違う。
懐月は口を開き、声が出ないことに気付くと咳払いして、
「答え合わせはこれからだ」
息を吸う。彼の遺志を思い知らせるために、冬華が二の句を告げるより早く音を発した。
「まず君の両親はその後殺害されている。そして過去この近くにあった村で、さらし者にされたそうだ」
それは彼女にとってさえ思いがけない言葉。
一瞬呆気にとられて、しかしまだ大丈夫だと、すぐに気を取り直し、
「そう」
と感情なく応じた。
だからこそ懐月は追求する。それでいいのかと、弾劾をするために。
「彼らが何故殺されたかは分かるかい?」
「忌み子を生んだからではない?」
丁寧な回答に、懐月は首を振る。
「正解は単純だ。彼らは、君をかくまっていたから殺されたんだ」
ピシ、と亀裂が入る。
一点でも脆(もろ)くなれば、積み重なり押し固められた壁はわずかな力で壊れてしまう。
だから懐月は、言葉に力を込めた。
「最初に君を閉じ込めたのは、君を殺そうとする親族の目から隠すためだった」
「でも、彼らは親族と一緒に私を──」
「彼らは連行されてきたんだよ。そして君に歩み寄ったのは君を庇(かば)うためで、君を貫いた凶器は両親をも貫いたものだということだ」
そう。すべては一抹の誤解より出でたもの。
ゆれる冬華に楔(くさび)を打ち込み、亀裂(きれつ)はやがて全身を覆い尽くして、それまで碌(ろく)に感情を表さなかった瞳を揺らがせた。そして彼女は過去に悔いるように自分を抱きしめて。
最後に一声──慟哭(どうこく)した。
他の音が一切なくなるような大きな声で。
声はもちろん言葉となりはしなかったが、ただひたすらに彼女は悔いていた。
父に、あの時両の腕を広げ守ってくれた背中に。母に、あの時両の腕で彼女を包んでくれた温もりへ───ただひたすらに感謝を。
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