静かに染み込んでくる雨の音が部屋を満たしていた。
室内は洋風に作られ、窓辺にテーブルと椅子二つのスペース、左の壁際に棚があり、続いてドア側にはベッドが二つ。更にその間にはスタンドライトを乗せた台まで完備しており、メモ帳もある。
おおよそ一般人には似つかわしくない部屋であり、調度品の全てが英国王室にあって違和感ないと断言できるようなアンティークであった。
そしてベッドの上にはどこにでもいるような青年が一人。
懐月(かいげつ)は昨夜の疲れに引きずられるようにして、睡眠を貪る──つもりだった。
時計が告げるのは早朝と言える時間だ。予定に反して、慣れない床は彼から熟睡の二文字を奪い取り、普段であれば昼に差し掛かる頃にようやく目を覚ますはずが、既に頭だけとはいえ起きている。
しかし彼の身体はいまだベッドの中にあり、最後の抵抗とばかりに目覚めようとはしない。
懐月はただ見慣れぬ室内に違和感を覚えながら、それをさて置いてまどろんでいた。
気だるげな身体を揺り起こしたのは、ドアから響く柔らかな物音だった。
だが未だ現実と夢をたゆたうような心地の懐月にとっては騒音でしかなく、顔をしかめて布団の中にもぐりこもうとして、寸前で状況を理解し、飛び起きる勢いでベッドから降りた。
服装はバスローブに、昨夜借りた屋敷の使用人の予備の下着。乱れた髪を撫で付けて、バスローブを整えるとようやくドアを開けた。
丁度、胸の位置で手を引いた千郷(ちさと)と目が合った。
「おはようございます。懐月様」
「……あの、昨日様付けはやめてくださいとあれほど」
「おはようございます。懐月さん」
何事も無かったように言い直す千郷は、これで中々慣れ親しみやすい女性だということが話すほどに感ぜられる。懐月も仕方なしと追求をやめた。
部屋に立ち入る彼女はカートを引いてきており、その上には洗面台とタオルに髭剃(ひげそ)り、それから屋敷の使用人のものであろう服が乗せてあった。
「主人は今外出中なので服を借りていいかどうかは分かりませんので、服はこれしかありませんでした。どうかご容赦(ようしゃ)ください」
「いえ。借りれるだけでも申し訳ないくらいです」
すまなそうに頭を下げようとする彼女を制して、懐月は湯気の立ち上る洗面台を見た。
「ところでこれは?」
「はい。懐月様はお客様ということなので、顔を洗うために一式をお持ちいたしました」
「居候という字柄(じがら)の方が相応(ふさわ)しいと思いますが」
とはいえここまでしてもらっては断ることが忍びないと、懐月は礼を言ってカートを部屋へと引き込んだ。
千郷は一歩を退いて外に立つと、
「朝食はあと二十分ほどで出来上がりますので、時間になったら食堂へおいでください」
「ええ。ありがとうございます」
お互いに笑みを交換し、ドアが閉ざされる。
直後、懐月は脱力した。現代の生活しか知らない彼にとっては、この環境の変化は心にのしかかってくると表現していいほどに精神に負担を強いるものであった。
鉛の息をつきながらも程よい湯加減の洗面器に手を浸し、一通りの身支度を整える。
バスローブをどうするかに一時迷うが、なるべく丁寧に折りたたんで今着ている服のあった場所へと乗せておいた。
始めはカートを持っていこうかとも思っていたが、どこへ、というのが分からなければ最終的には迷惑をかけるだけだ。
着慣れない執事の衣装に落ち着きを吸い取られながら、彼は窓の外へと目を運ぶ。
完膚なきまでに嵐だった。
視界は船底から外を眺めているかのようであり、太陽が顔を覗かせることなど望むだけ無駄だと言わんばかり。
そして彼自身、自然に与えられた服を着てしまっていた。
世話になるのは一日だけだと決めているのだが、と頭をかき、懐月は部屋を出る。
台所は右か左か、というのは昨晩教えてもらった知識を使えば判断できる。目的地が食堂でないのは、千郷に出て行く旨を伝えるためだ。
外からの音は、彼女を説得するのは無駄だと、瞭然に告げてくるのだが。
やがて食堂を抜けて台所───いや、キッチンと呼ぶのが相応しい───にたどり着く。
中心にはテーブルがあり、壁沿いにしてL字型に延びるキッチンはコンロやオーブンなどが完備されている。向かいの壁はホテルのキッチンにあるような冷蔵庫が威圧感さえ持って立ち並んで備え付けられていた。
予期しなかったスケールに固まった懐月の気配に気付いたのか、キッチンで包丁を振るっていた千郷が首だけを入り口へと向ける。
表情は珍しくやや咎めたてるもので、
「懐月様。男の人、ましてやお客様は厨房に入るべきではありませんよ」
ずいぶん古風な人だな、と感想を持ちながら、懐月は当初の目的を思い出す。
「すみません。ですが、これ以上お世話になるのは気が悪いので……」
「この嵐の中を帰りますか?それならば、おやめください。私が何と言って貴方をこの屋敷にお招きしたかを覚えていますでしょう」
心配そうな顔色を添えてそう言われてしまえば、懐月は反論する意思さえも根こそぎ奪われて押し黙るしかなかった。
だがこのまま食堂に戻るのも後味悪く、彼は顔をあげて問う。
「ご主人はまだ?」
「ええ。元々一週間ほどかかる用事ですので。それに嵐ですから、そう簡単には帰ってこられないかと思います」
「鬼のいぬ間に、というのは変ですが……いいんですか?主人の留守中に僕のような身元も分からぬ男を泊めて」
懐月としては気が咎めての言葉だったが、千郷は気にした風もなく、決まり文句であるかのようによどみなく答えを返す。
「困り人を放っておくのはそれこそ主人の意に反します。寛大な方であり、本人も苦労された方ですから」
それとも、と一拍おいて、
「懐月様は私どもを害するおつもりなのでしょうか?」
「千郷さんが様付けを止めてくれなければ、と返しましょうか?」
少々呆れた懐月に、千郷はあら、と口元に手を当てた。
「すみません。注意いたしますね」
二三言葉を掛け合って、彼女は己の手元へと視線を落とした。ならば懐月もそれ以上邪魔をする気はなく、きびすを返し食堂へ。
食堂もまた調度が豪奢(ごうしゃ)で、しかし主張がすぎるということはない。だが窓と暖炉、扉が向かい合う壁に一つずつと、中央に六人掛けのテーブルが一つと言ってしまえば、仔細(しさい)を説明するのは難しい。そんな部屋だった。
足を踏み入れると、二人目の住人と目があった。
「おはよう、御奏(みかなで)さん」
「……」
返事は無言と一礼。昨晩と同じ対応なので、嫌われているのかどうかも判断しかねる。
既に十分ほどをすぎているが、懐月と話をしていたために千郷の作業は遅れるだろう。しかしながらどこかふらついているほど時間が空いているわけでもなく、彼には他に丁度よく時間を潰すアテがあるわけでもない。
懐月とは反対、ドア側の席に腰掛けるのは、彼とさほど変わらない年齢の少女だ。
まだ幼さを残している顔立ちなのだろうが、きわめて彩りの無い表情と口数の無さが雰囲気を大人びたものにしている。
せめて能面のようであれば表情を読み取ることもできようが、と考えて、古来の意味とは現在の意味が異なっている事を思い出した。
辞書を見たときの衝撃を懐かしみ、思考の区切りに意識が戻る。
少女、御奏咲音(さくね)はじっと窓の外を見詰めており、懐月を歯牙(しが)にもかけていなかった。
彼女の背後にある暖炉は音を立てることがなく、どこか似たような印象がある。どちらも長い年月を経たような雰囲気をまとっているとでも言おうか。
だが歳若い女性に抱く感情ではない、と懐月は考えを改めて、御奏に倣(なら)った。
静けさだけが空間に満ちていき、やがて外の音さえも消え去ってしまうのでは、と懐月が詮(せん)もない危機感を抱いた時、彼の後ろのドアがゆっくりと身を引いた。
「あら、すみません。二人ともおそろいでしたか」
まだ湯気の立ち上る料理をカートに乗せて、千郷は足早に食堂へと入ってくる。
急な一声に、懐月はねじを巻かれた人形のごとく動くということを思い出し、御奏の向かいの席へと腰掛けた。同時に座ってさえいなかった自分に驚きもした。
懐月が席に着いたのを確認すると、千郷はテーブルを料理で彩ってゆく。トーストにベーコンとスクランブルエッグ、コーンスープと、簡素ながら上品な仕上がりで、部屋と比べても遜(そん)色(しょく)ない。
食卓についた二人は料理が並べ終わるのを確認してフォークをつけるが、昨晩と同様、千郷は客人がいるときには食事を摂らず、机の端に立ったまま待機している。
昨夜懐月は落ち着くこともできないので、と一緒に食事をするように勧めたのだが、彼女は終(つい)ぞ首を縦に振らず、それどころか食堂に引っ込んでいるとさえ言うほどであったので、懐月は折れる他なかった。
自分への言い訳からもう既に食べたのだろうか、と考えるが彼女のことだ。先に食事を口にするようなことはないだろうと懐月は思う。
「懐月さん。今日は屋敷の案内をさせていただけたらと思うのですが、この後お時間よろしいでしょうか?」
「え?あ、はい。僕ならかまいませんよ」
考えをめぐらせていた本人に声をかけられたものだから、懐月は少し言葉につまり、しかしすぐにベーコンを口に放り込んで咀嚼(そしゃく)のスピードを上げる。
変化の顕著(けんちょ)さに千郷は慌て、
「あの。別に急がれる必要はありませんので、ゆっくりお食べになってください」
気をわずらうように声を掛けるが、懐月としてもこの屋敷には興味があるので、気にすることはないと笑みを作った。
昨夜玄関ホールに立ち入ったときの、まるで中世にでも迷い込んだような感覚は嫌いではない。それどころか、失礼だとは感じつつも、この屋敷を見て回りたいと、まるで美術館に入ったように感じていたのだ。
むしろ望むところと、しかし味わうことは忘れずに。食事を終えて手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
と、目の前の少女も同じように手を合わせているのに気がついた。同時に目も合う。
だが御奏は無言で、席を立つとそのままドアの向こうへ消えてしまった。
所在をなくした懐月は頬をかき、千郷は気遣うように声をかける。
「では、参りましょうか。私は食器を片付けてから行きますので、申し訳ありませんが外でお待ちください」
「ええ。分かりました」
言いつけ通り外に出れば、光のない廊下が顔を見せる。
向かいには使われていない客室のドアがあるが、食堂を出てすぐの場所に客室、というのはよくないとの言が主人からあったらしく、永久に使われることはないとのこと。懐月としては楽そうなのでという理由でこの部屋を求めたのだが、先の理由から千郷に断られていた。
あとは左にトイレがあり、少し進んで右に折れれば懐月のあてがわれた部屋、更に左に折れれば突き当たりの左は浴室になる。昨晩説明を受けたのはそこまでで、最低限必要なところを教えてもらったことになる。
通ってきた通路の途中、玄関ホールには螺旋(らせん)階段と、左右に部屋もあったが、兎(と)に角(かく)疲れていた彼は館の人たちとの自己紹介を終え、シャワーを浴びると眠ってしまった。
原因は自分だったことで額に手を当てる。
「どうも、お待たせいたしました」
回想を終えた辺りでドアから千郷が首を出し、次いで全身を露(あらわ)にする。相変わらず皺(しわ)一つない服装で、背筋は伸びて見ていて気分のいい風体(ふうてい)である。
懐月も思わず口元をほころばせ、
「いえ。滅多にお目にかかれないような内装ですから、同じ場所でも見ていて飽きません」
「そう言われればこの館も幸いでしょう」
我がことのように喜んで、千郷は先に立って歩き出した。
続く懐月が向かうのは屋敷の奥。基本的に客室の並んでいる場所だ。
「客室といっても、近年では私と咲音さんぐらいしか使っていませんので、ほとんどが空き室ですけども」
昔は招いた客や泊まりにきた親族で実に賑やかだったという。
空き室を見せてもらえば造りは懐月のあてがわれた客室と同じもので、千郷が言うには彼女達の部屋も同様だとのこと。
通路をまっすぐ進んでいれば、一番奥にたどり着く。突き当たりに窓がないのは、壁を越えれば土砂が堆積しているためだ。
「元々こちら側は危険だということで、窓は作らなかったようなんですよ」
それが正解だったらしく、数年した頃に小さな土砂崩れが起きたそうだ。ただ、何故そんな場所にこの屋敷を建てたのかは彼女でも分からないらしい。
懐月が手を当ててみれば、予期していただけあって壁はわずかほども傾いでいない。
「さすがに造りが丈夫みたいですね」
「いえ、それがそうでもないんです」
千郷は客室とは反対側のドアを示すと、
「こちらの部屋は土砂に埋もれてしまって、危ないので施錠しているんですよ」
「……鍵だけで大丈夫ですか?」
「ええ。部屋の全てを土砂が覆っているわけではありませんから。ドアが壊れてしまうというより、誰かが間違って入ってしまわないかというほうが問題ですね」
「なるほど」
振り返り、壁に向かって右側は奥から順番に千郷、御奏、空き室、懐月のあてがわれた部屋となり、そこが突き当たりになる。
元来た道を戻り、右へ折れると右手は手前から遊戯(ゆうぎ)室と倉庫、左手は客室と浴室になる。突き当たりの壁にはやはり窓がない。
二人は薄暗い廊下から遊戯室に入った。
部屋に並ぶのは九十度ほどに切り取ったバウムクーヘンのような形のテーブルと、羅紗(らしゃ)張(ば)りのビリヤード台で、道具はきちんとしまってある。
その間に立って、千郷は右手で示しながら説明を加える。
「ここでは撞球(どうきゅう)とカードができるようになっていますが、親がいないのであればカードはでき
ないでしょうね」
彼女のいう親とはディーラーのことだ。つまりとランプといってもばば抜きや七並べといった類のゲームではなく、ポーカーやブラックジャックといった手合いのゲームをするための台になる。
懐月はビリヤード台に後ろ髪を引かれるものがあったが、慣れないものに知識だけで手をつけたところで、と考え直し、出て行く千郷の背を追った。
今度は食堂のドア前まで引き返し、そのまま真っ直ぐ玄関ホールへと歩く。彼女は玄関前で立ち止まっており、懐月が追いつくと右手を持ち上げた。
「こちらがサロンですね。昔は大勢のお客様を招いて談話会などを催(もよお)していたのですが、今ではこの通りで」
やや物悲しそうに眉を下ろす。左に向き直ると、
「こちらは玄関側が待合室、一つ隣が少し手狭ですが談話室となっています。サロンはこちら二つ分の広さがございますので、もっぱら仕事やパーティ用として使われていますね」
視線を言葉通りに移してから続いて背後を見回せば、飛んでいく竹とんぼをコマ送りにしたような螺旋階段に目が留まる。
丁度そのタイミングで、千郷は声をかけた。
「では、二階へ参りましょうか」
懐月の隣を通り過ぎて、改めて先導する立場で二階へと歩く。
階段は建物の右で途切れており、左に折れるだけになっていた。突き当たりは一階と違って目で見通せる程度にであったものの、しかし一般的な一軒家を思えば広い。
「奥から順番に書庫、トイレ、執務室、主人の部屋となっております。書庫は少し暗いですが、本を読むスペースもありますし、もちろん本を客室に持ち出していただいてもかまいません。ただ書物は明かりを嫌いますので、消灯には気を払ってください」
三階へ上る階段は見当たらず、館内はこれで一通り回れたことになる。
懐月ははあ、と一息つくと、
「ありがとうございます」
「……あの、もしかして本に興味がおありですか?」
目線を書庫のドアに固定したままの礼では、千郷が訊ねるのも無理はない。
懐月はドアから彼女へと意識を逸らすと、すみません、と頭を下げる。
「昔から時間を潰すものといったら本が主でして、ついつい気になってしまって」
「今時分の方にしては珍しいですね」
千郷は目を丸くするが、
「ですが嬉しいです。この書庫は主人も気に入っていらっしゃるので、執務室(しつむしつ)があるというのにここで仕事をなさることも珍しくないんですよ」
弓なりになった目は彼女の感情を代弁するようで、懐月は彼女が本当に主人を慕っているのだという印象を受けた。懐月は千郷を高く評価していたので、彼女の慕う人間というのには興味が湧く。
だが今問いかけるわけにもいかず、彼は気持ちを切り替えると書庫に意識を向けた。
懐月にとっては娯楽の宝庫とも言える空間に、知らず胸は高鳴っていく。
気になりだしたら、止められなかった。
「では、僕はここで時間を潰すことにします」
「ええ。私は仕事に戻りますね。入用があれば、お申し付けください」
礼を告げ、後姿を見送ってから、懐月は何とはなしに廊下に並んだ窓から外を眺める。
相変わらず外は灰色で、装飾の施された窓ガラスは濡れ曇り、粘膜質の薄皮を張ったようになっている。膜はところどころ隙間を作って、しかしそこから見える外も薄雨という霧に覆われたように頼りない。
まるで異界に足を踏み入れたような、そんな不安を心の裡(うち)に無意識に抱え込みながら。
懐月は外に背を向けた。
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