四. 終わりの答え合わせ

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 懐月は、ただひたすらに謝っていた。
 頭を下げ、自分の不甲斐(ふがい)なさを露見(ろけん)する。人であればできうる限り逃れたいことを、彼はそれだけしかできぬという直向(ひたむき)さで目の前の少女に向けていた。
 無表情で人形のように整った顔立ちは珍しく困惑をかすかに浮かべ、胡桃割(くるみわ)り人形のようにただそれしかできぬと頭を下げる懐月をなだめている。
 やがて彼女は腹を決めたと口元を引き結ぶと、
「もういいよ。私はそれが何のことか分からないんだから、いくら言われたところで、その謝罪は君の自己満足」
 辛らつな言葉をなげかけられて、懐月はようやく、我を取り戻して口をつぐんだ。
 正気に戻った懐月に彼女はわずかに安心して、
「そもそも別に謝ってもらいたいわけじゃないから。千郷はしたみたいだから、私も説明しておいたほうがいいかと思ってこうしているわけだし」
「説明?」
 そう、と彼女は腰の辺りで肘を組む。
「私はね。そもそも生きてもいなかった。私を部屋に連れこんだ君なら、その意味が分かるでしょ?」
「言い方が悪いが……」
 懐月が彼女の部屋から持ち出したものは一つだけ。それをもって彼女が言うのであれば、懐月にとって理解は容易い。予想が現実になっただけのことだ。
「だがそれだと、千郷(ちさと)さんの説明に矛盾ができる」
 彼女は死ぬことができないといった。実際には死んでも存在し続けるという意味だったようだが、よくよく考えてみれば現在の状況がもう当てはまっていない。
 いろいろなことに気がつく懐月に、彼女は更に情報を追加する。
「あれは千郷の考え。何が正解なんていうのはこの屋敷には存在しない。だからみんな自分で考えるしかないの」
「それならば、君の考えは?」
 結論を急ぐような問いかけになる懐月に、彼女はたしなめるようにため息をついた。
「私の目的はね。私の持ち主の代わりに生きること」
「……この屋敷であれば持ち主が生きればいいだろう?」
 そう、だから私には分からない、と彼女は独白(どくはく)する。
「理由は分からないけれど、こうして形をもてたのは私だった。だから、私は彼女のためにも生きなければならない。でも私は彼女の映し身だから、彼女が生きた年齢以上は姿が成長しないの。嬉しいことにね」
 小さく微笑む彼女に、懐月は問う。
「君はその間、何をしていた」
「何も。ただ、生きていただけ。今思えば、それが悪かったのかもね」
 言葉を額面通りに受け止める。言われた通りに動くだけとあっては、まさに人形だ。
 懐月の考えを読み解いたように、彼女は腕を持ち上げ、袖をまくってみせる。
 二の腕から先しか現れていないものの、関節を球体で補われ、人の柔らかさを持たないつややかな質感を伴って懐月の目に映るは、まさしく人形の腕だった。
「もう一度、勉強を見てもらいたかった。そう言ったら、意外?」
 恐れるように身を引いて問いかける彼女に、懐月はいや、と頭を振った。
 それだけが、彼女にとっては漫然(まんぜん)と存在し続けるという生(せい)の枠(わく)を超えることのできた唯一の行為であり、自らの意思で行ったただ一つのことなのだ。
 しかし残酷かな。彼女がその意思を持ったからこそ、思いは満足してしまった。
 だからこそ彼女の身体は元へと戻ったのだ。私は、生きたのだと。
 そしてやはりその切っ掛けを与えたのは、懐月に他ならない。
「そもそも私は持ち主のために生きることだけが目的だった。だから何も感じることなく、人形のままでいられたのにね」
 自分への後悔か、懺悔(ざんげ)か。身を締める真綿に彼女は自らを抱きしめ、そして天を仰ぎ見た。
 耐え難い苦難。しかし始めて得たであろう幸福。それ故に訪れた終わり。感情を持たなかった彼女は、理解できぬままに、ただ一声、ああ──、と叫んだのだ。
 涙は出ない。しかしそれは紛れもなく、彼女にとって始めての落涙(らくるい)だった。
「──私の話はこれでおしまい」
 落ち着いた彼女はいつも通りの無表情で、しかし口の端にわずかな斜線。
「少しは役に立つ?」
「十分すぎる」
 生まれ変わったとさえ表現して差し支えない彼女の様子に、懐月はもう謝らない。
「ありがとう」
「いいえ。こちらこそ、人として生きるということを教えてくれて、ありがとう」
 告げる彼女の表情に、懐月は思わず言葉を失った。
 彼女の姿が消えたわけではないし、突然別の姿に移り変わったわけでもない。
 ただ彼女は笑っていた。これまでの幸いを少しでも伝えようと、満面の笑みで。
「それじゃあ、バイバイ」
 とん、と、これ以上はお預けというように、彼女は顔を伏せて、懐月の胸元を押した。
 小さな力だ。しかし懐月は足を後ろによろめかせ、一歩、二歩、三歩で足場を失った。
 落ちる。そう思い目蓋を強く閉ざした直後に、
「またか……」
 目が覚めた。
 夢にしては残酷で、懐月は身体を折り、思わず胸を掌で握りこむ。
 それから無意識にさまよわせた視線の先、窓際の椅子にあるべきものがなかった。
 懐月は胸の痛みも無視して起き上がったが、テーブルの上には彼が持ってきてそのままの本が置いてある。部屋が入れ替わったわけではなく、だからこそ懐月は腰を下ろした。
 なくなった人形に一度目礼をして、彼は椅子に背を向ける。
 胸の裡を真綿で締め付けるような痛みは消えていた。まるで許しを得たからこそ、罰を与えることをやめたように。
 ならば、前に進もう。
 懐月は大きく息を吸い、部屋の外に踏み出したのだが、
「──そんな」
 馬鹿な、という言葉さえ喉を通り抜けずに落ちてゆく。
 扉の繋がる場所に整合性がないのはもう当たり前のことと割り切っていたのだが、
「この椅子は、サロンのもののはずだ」
 懐月が背を撫で付ける椅子は、座高も低く、腰掛ければさぞゆっくりできるだろう作りをしていた。だがここは食堂だ。今までは豪奢(ごうしゃ)なものを落ち着いて見せていた部屋も、均衡(きんこう)を崩されては不愉快な色しかない。
 椅子に座ればテーブルは顎の辺りになるだろうか、とぼんやり考えながら、懐月が見回す部屋は統一性がない。電灯も書庫にあった薄明かりで、かと思えば中央には玄関ホールにかかっていたシャンデリアが、机に手を伸ばすようにぶら下がっているのだから。
 なかったことにするように懐月が道を引き返す。
 今度は遊戯室が土砂に埋もれ、土砂の上に調度品がずらりと並んでいた。
 ドアを開ける。やはり変わらず、混沌は目の前に。
 開ける。開ける。開ける。開ける。開ける。
 ついには半分が執務室で半分は遊戯室という部屋に風呂桶が鎮座し、テーブルが天井に設置されて椅子は壁にという様相を見せるに至り、懐月はもはや自分が元の部屋に戻ることができるのか、そもそも元の部屋などあるのかと。
 愕然(がくぜん)と、立ち尽くすばかりであった。


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