四. 終わりの答え合わせ

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 もぐりこんだ布団の端から腕が落ちて、そのわずかな衝撃に懐月(かいげつ)は身体を起こした。
 幾度も鈍痛が鳴り響く頭蓋であったので、少しの切欠があればいつであろうと目は覚ましただろう。懐月はそう割り切って布団から逃れると、据わらない目を落ち着かせる。
 頭をめぐらせれば室内は変化を知らぬようにひっそりと息づいており、ただかちこちと音を鳴らす時計だけが時間の流れを伝えようと必死である。
 窓の外は今日も雨。しかし懐月の印象は反転している。
 理由は心境の変化が大きい。そうと信じるものにとっては鰯(いわし)の頭とて価値があるように。
 昼前の落ち着いた空気が漂う中、懐月は脱いでいた上着のシャツを椅子から受け取って、袖を通す。
 腹に手を当てれば少々頼りなく、食べ物を求めてドアを開けるが、繋がるのは書庫であったり空き室であったり。慣れた懐月は動じないものの、わずらわしさだけは後に残る。
 途中洗面所で顔を洗い、気分が少し落ち着いたところでキッチンへと足を踏み入れる。
 材料はきちんと保管されているようで、懐月が保管庫を覗けば色とりどりの野菜、果物、魚介類に肉類が顔を見せる。どれも新鮮で美味しそうではあるが、残念ながら加工している暇が懐月にはない。
 簡単なものでいいだろうと、彼は慣れた手つきで棚から食パンを取り、他いくつかの野菜とハムを持ち出して、キッチンではなく中央のテーブルにまな板を持ってきて調理を始めた。
 手際は決して悪くなく、むしろ一般人としては上出来の部類。
 とはいえ、重ねて半分に切るだけのサンドイッチではあったのだが。
 出来上がったそれをそのまま口に放り込み、これからの予定を立てようとして、懐月は首を振った。全ては昨日に決まっている。
 手を合わせて食事を終え、食器は使っていないのでまな板と包丁を洗い、キッチンを出て空き室、サロン、廊下、トイレ、談話室を経由して、たどり着いたのはまた空き室。
「ん?」
 次の部屋へ行こうと部屋に背を向けた懐月だったが、ふと視界の端に映ったものに引かれるようにして頭を返す。
 ベッドの上。屋敷に異を唱えるように、黒髪の人形が一つ眠っていた。
 布団をきちんと掛けられていて、一見しては気づけなかったのだろう。人形ゆえに目は閉ざされず、ただじっと天井を見詰め続けるそれに、懐月は一つの納得を胸に、手を伸ばした。
「……そうか」
 どうにかできたかもしれないし、知っていたところでどうすることもできなかったかもしれない。もう間に合わなかったことなのだから、あらゆる仮定は無意味だ。
 人形を同伴(どうはん)した懐月は何度もドアを開け閉めて、戻ってきた部屋の椅子に丁寧に座らせた。
 腰を下ろし、少し頭を下げた人形と目線を合わせて、
「屋敷のことについて、話せるか?」
 問いかけてから、懐月は人形の口はただの凹凸にすぎないことに気付き、苦笑した。
 どちらにせよ返答はなく、傍から彼を見るものが懐月を狂人と罵(ののし)ったとしても、誰も咎めだてはしないだろう。
 だがそれでも、と彼は立ち上がりざまに人形に顔を寄せ、
「……すまなかった」
 面を伏せて、数秒。
 何故彼女がこうなったのかを懐月が知ることはない。そもそも彼の予測が正しいとも限らないのだ。もしかするとただの人形遊びをしている可能性もある。
 だが信じることは、信じる人間にとっての真実を生み出す。
 例え他が異を唱えようと、懐月にとってはこれが真実だ。できれば信じたくないが、少なくとも彼女がいないのは確かなことなのだから。
 ドアを開ける。しかし屋敷は彼を書庫にはたどり着かせない。
 だが懐月はこれでこそ現実であり、自分の意志で動いていることを実感する。
 そしてまた幾度となく扉を開けては閉ざしを繰り返し、あの執務室が姿を見せた。
 ドアノブを握り締める懐月の口から、あ、と息が漏れる。
 テーブルは綺麗に拭き整えられていて、机に散らばっていた文具や書類の類も全てどこかへ納められて、さっぱりしたものである。
 何もない、ということに懐月は一抹の侘しさを感じてきびすを返す。
「今僕がするべきは、動くことだ」
 言い聞かせるように呟いた。頼ることばかりを考えていては、今は進めない。
 ──ですが、何かを変えるのには相応の力が要ります。
 声が、した気がした。
 けれど振り返れば消えてしまいそうで、懐月は部屋に背を向けてノブに手を掛けたまま、夢を楽しむように問いかける。
「あなたは、それが足りなかった?」
 ──私なりに頑張りましたよ。ですが、私だけが頑張ったところでどうしようもなかったんです。そのことに気付かなかったから、良い終わりを迎えられなかったのでしょう。
「確かに。あなたの望みは、あなただけが望むのであれば叶わない」
 懐月が笑うと、声は気付いていましたか、と苦笑してから、
 ──あの人は、紳士的に振舞っていても根は頑固ですから。
 ふと、気配が弱くなって、懐月はいよいよ覚めるか、と思い部屋を出ようとして、
 ──良い終わりを迎えようとするのであれば相応の力が必要です。それは人一人で補える量ではありません。ですが懐月様。あなたであれば幸いの下に終わりを迎えられると、そう信じております。
 一礼。背を向けた懐月には見えないが、
「─────」
 懐月は瞳を閉じ、振り返って、頭を下げた。
 そして扉に向かい、手を伸ばす。それは何かを掴むためであり、得るためであり、広げられた掌は次を求めるためにドアノブを掴む。
 引いた。
 流れ込んでくるのは書物のにおい。彼の待ち望んだ、古びた紙のにおいだ。
 機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)も、こういう場面であれば歓迎しよう。
 懐月は毅然(きぜん)と書見台(しょけんだい)までを歩き、立ち止まる。
 座して引き開ける引き出しは慣れ親しんだ感触で、中身も赤と黒のペンとメモ帳という何度か目にした組み合わせが転がってくる。
 引き出しを留め金にかかるまで引くと、ペンを手にとって、一番奥の底に押し当てる。
 すると何の抵抗もなく底蓋の手前が持ち上がり、姿を現すのは一冊の和書だった。
 紐で閉じられた書を手繰り、流麗(りゅうれい)すぎるあまり読みがたい文字を、周りの書物を頼りに読み進めていく。
 メモ帳に翻訳される内容はただの日記であり、しかし懐月が一笑に付すには難しい。そんな書物だったのだが、
「冬華が神?」
 この件には、いくら現実でものを考えないと決めた懐月といえど首を傾げざるをえない。そんな存在は人々の裡にあるもので、決して姿を見せることがないものだ。
 ひとまずそこは置いて読み進めれば、屋敷に住んでいたのは日本人で、また忌み子という風習を残した家系であったことも分かる。つまりある種の突然変異した子が生まれれば、その子を間引く、あるいはどこかへ閉じ込めてしまうという風習があるということだ。
 そしてこの屋敷は多く殺してきた忌み子によって呪われているため、家系の血を継ぐものは必ず早世してしまうということらしかった。
「まるで現実と妄想の日記だ」
 しかし呟く懐月もまた、似たような状況に悩まされた経緯がある。
 加えてある一節には、死んだはずの親族の声を聞き、あまつさえ会話までしたのだが、あれが本当にあったことなのかどうかが分からない、という記述まで。
「だとすれば、館がこうなってしまったのはこの時期ということになる」
 日記を書いているのはかなり歳を召した人間のようで、時折過去の屋敷と比較している部分がある。そのおかげで、注意して読んでいれば更に昔は屋敷もごく普通の建物だったことが浮かび上がってくる。
 やがて日記は次第に、迫り来る死を受け入れていく老人の手記になり、懐月は心地が悪くなって本を閉じた。
 日記を書見台に置いて、椅子に背を預ける。
「早世については流行り病か何かだと考えることもできるが……」
 冬華は神であるから失礼のないように、というのはどういった心境からくるものか。それが懐月の頭にはとんと思いつかない。
 だが日記にはいくつもの整合点がある。
 過去の懐月であれば笑い飛ばしていた内容も、今の懐月にとっては黄金にも等しい価値を持っていた。
「とにかく、屋敷の背景は理解することができた」
 それは大きな収穫だ。
 懐月に自覚はないようだが、作業は長時間にもおよび、彼はドアを開けた先、サロンの窓から見える空が色濃く変化しているのに驚くのであった。


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