三. 疑念と消失

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 懐月が目を開けたとき、外からは雨音、内からは腹の獣が空腹を訴えてくる声が部屋に響き渡っていた。
 時計は彼が数時間寝ていたことを伝え、ちくたくと規則的に動き続ける。
 頭痛に額を押さえながら懐月は起き上がった。
 まだ覚醒しない頭ではものもよく考えられず、ただ食事を取ろうと考えてドアを開けてようやく状況が身体に染み渡ってきたという塩梅。
 額に手を当てて、ひとまず洗面台で顔を洗う。ドアを開けてたどり着いたのは、廊下ではなく脱衣所だった。
 続いて浴室に足を踏み入れれば遊戯室、書庫を経由して食堂へ。
 懐月にしてみれば不幸中の幸いだった。
 半分ほど諦めていたのだが、テーブルにはやや冷めてはいるものの千郷の作ったらしい料理が並べてあり、彼は皿の下にあった書置きを横にのけて席に着く。
 食事を口にしながら横目で目を通せば、書斎で所用を片付けなければならないので何かあったらお申し付けください、という定型句が書き綴(つづ)られていた。
「そうしたいのは山々だが……」
 食事を終え、キッチンへ移動すればついにはトイレがぽつんとおいてある。
 気分が悪くなってトイレを出れば、今度は通常通り、トイレ前の廊下が現れた。
 気が重くなってため息をこぼし、書置きの内容は実は嫌がらせではないかという勘繰(かんぐ)りまで飛び出してしまう。
 悪い方向へ考えようとする頭を叱咤(しった)して、しかしやはり千郷には会うべきだと懐月は廊下を歩き出した。
 料理がきちんと作られて置いてあったということは、少なくとも彼女は思い通りに屋敷を移動することができているということになる。
 何か法則でもあるのだろうか、と様々な推測を脳内にめぐらせながら、懐月は手当たり次第にドアを開け放っていく。だというのに二度見る頃には閉ざされているのだから、屋敷もまた親切だと言おうか。
 だが幾度となく繰り返す懐月の根気がようやく屋敷に音をあげさせたか、一つだけ、ドアが開いたままになっていた。倉庫のドアだ。
 懐月は始めての状況に、隙間(すきま)から室内を窺(うかが)う。
 まず見えたのはテーブルを挟んで向かい合う二つのソファで、更に奥には執務用のデスクが書物を数冊抱えて置いてある。明らかに倉庫ではない。
 その場所に思い当たると同時に、懐月は扉を突き破る勢いで開け放った。
「……懐月さん?」
 目を合わせ、お互い呆然とする。
 執務室の机に座って雑務を片付けているのは千郷の姿で、やがて驚きから復帰すると表情を曇らせ、面を伏せた。
 懐月がどうして転がるように入ってきたかを知っているように。
「なにか、御用でしょうか?」
 問いかける笑顔はいつもよりもぎこちなく、懐月は無言で居住まいを正す。
 そして返事を待つことなく、千郷は言った。
「間食が必要であればなにかお作りしましょうか?」
「いいえ。大丈夫です」
 懐月が一蹴すれば、つと瞳をさまよわせてから、
「なにか見つからない本でも?」
「きちんと整理してあったので、とても見やすかったですよ」
「それは、ありがとうございます」
 笑みで礼を告げる千郷にいつもの大人びたゆとりはなかった。
 ただ焦りに突き動かされるままに口を開き、
「咲音さまでしたらまだ調子はよろしくないので……」
「ええ。わかっています」
 まっすぐな懐月の視線に耐え切れず、やがて俯いて、諦めの一息をついた。
 持ち上げた顔には懸念(けねん)、諦念(ていねん)交じりの懸念が浮かんではいたが、どこか晴れやかで、達観(たっかん)する風でもあった。
「思ったより、懐月さんと私でできるお話は少ないものですね」
「……単純に、僕が会話を断ち切るような返事をしていたからですよ」
 懐月はなおも続けようとするが、千郷はそれ以上を制して席を立ち、静かに微笑んだ。
「そろそろ、潮時のようです」
 千郷は部屋を横切りながら、扉の前で立ち止まり、懐月へと向き直る。
「少しお待ちください」
 そのまま出て行こうとする千郷に懐月は咄嗟に手を伸ばそうとするが、
「ご安心ください。今更逃げようなどとは思いませんよ」
 子を諭す母のように諭されて、腕を下ろす。
 千郷が部屋を出て数分。一人残された懐月は次第に不安にまとわりつかれ、何度か部屋を出ようとするものの、出てしまえば戻って来れぬという予感もあって、部屋を右往左往落ち着きない。
 程なくして千郷が戻ってきたときには、安堵にへたり込みそうにもなった。
 どうやら彼女が出て行ったのはティーセットを取りにいくためだったらしく、見慣れて久しいカートが音を立てて部屋に入ってくる。
「聞きたいことがおありのようですから、お話します。ですから、席へどうぞ」
 談話用のテーブルにティーセットを並べながら、彼女は向かいの席に掌を添える。
 促されるままに座り、懐月は思う。千郷はいつであろうと、彼を導いていながら、惑わしてもいたのではないかと。
 初めて二人はテーブルを共にして、互いに一口紅茶を味わう。
 先に音を発したのは、千郷だった。
「この館の間取りはつかめましたか?」
「ええ」
 苦笑での肯定に彼女はそうですか、と前置きをしてから、
「それならさぞお迷いになられたでしょう」
「本当に。小さい頃に行った遊園地の迷路を思い出しましたよ」
 大人からしてみればたいしたことはないのだろうが、子供の視野と目線の高さでは不安になるほど入り組んだ迷路だったことを思い出す。
 まさか成長して二度同じ心地を味わうなどと、予想しえただろうか。
「扉の向こうがどこに繋がっているのか分からない。まるで山中異界に迷い込んだような気持ちだとでも言いましょうか」
 加えて、
「前も話したと思いますが、僕は誰もいない場所で声を聞いた。そして出会った少女に、千郷さんは外に出してくれないから酷いと愚痴まで聞かされましたよ」
「そうですか」
 今まで散々誤魔化してきた話であったが、千郷はとうとう懐月の言葉を肯定の響きで受け取った。
 それから何事かを考え込むと、
「この後、書庫の書見台の引き出しの底を外した場所に日記がありますから、それに目を通してみてください」
 千郷は困ったように眉を寄せると、
「実のところ、私にもこの屋敷がどういうものか詳しく存じ上げません。おそらく冬華様を中心にこの屋敷は在る、ということぐらいでしょう」
 思いもがけない種明かしに、懐月は肩透かしを食らった気分で全身の力を抜いた。
 まったくの見当違い。懐月本人は気付いていないようだが、彼の予測はただそれらしい、という仮定と、そこに推測を積み重ねていたという穴がある。
 結局千郷が彼を屋敷に招きいれ、冬華に出会い、御奏が病気にかかり、そして主人が帰ってきたという一連の流れは全てただの偶然の重なりにすぎず、別々に起こっただけ。
 結局、真実はいつだって単純なのだ。
 なんだかんだ言いつつも懐月とて本の読みすぎか、と反省していると、千郷が何気ない風に言葉を紡ぐ。
「付け足して言うならば、ここでは死ぬことは許されません」
「は?」
 さすがに懐月といえども頭を疑うしかない発言なのだが、千郷は紅茶を飲むと、気にも留めず至極真面目に続きを話し出した。
「私は一度病に倒れて死んでいるんですよ。おかげで歳をとることはなくなりましたが、年月
を経るごとに自分というものが磨耗(まもう)していくのが分かります」
 胸に手を当てて、
「身体が衰えないのであれば、精神が代わりに衰えようとでもいうように」
 わずかな悲哀を滲ませて、千郷は話を終えた。
 開いた口がふさがらないとはこのことか。
 山中異界。以前懐月の口にした言葉は、そのまま事実として館に組み込まれていたのかもしれない。そんな場所で、常識というものがどれほどの意味を持とうか。
 そうなれば、懐月も逡巡することが馬鹿らしくなる。
「先程は聞き流しましたが、あなたは冬華のことを知っていますね?」
 問う懐月に、千郷は意図を悟って顔をしかめた。
「そうですね。確かに、私は懐月さんが冬華さまにお会いになるのを邪魔しておりました」
 一度言ってから、彼女は迷うように、参りましたね、と背もたれに脱力する。
「あまり口にすることではありませんが。私にも目的があります。それを果たすためにも、今懐月さんという、いわば部外者の方を核心に触れさせるわけにはいかなかったんです。とはいっても、無駄な努力だったようですが」
 そこから始まった彼女の顛末は実に単純だった。
「始めは放っておいてもどうにかなると思っていたんですが、やはり外的要因がなければ変化らしい変化は起こらず、焦り始めていたところに丁度懐月さんがいらしたんです。一種の反応剤、あるいは触媒としての効果を求めたんでしょうね」
 そして千郷は懐月に声をかけ、だが彼女の思惑通りに事は運ばれなかった。
「懐月さんを屋敷に招きいれてから、変化は確かに起こりました。ですがそれはまったく未知のもので──」
「御奏さんの身体、ですか?」
 懐月が思い当たりを口にすれば、千郷は頷いた。
「ええ。どうしてこんなことになったのかと訊かれれば答えられませんが、それでも今までになかった変化は今までになかったものによって引き起こされます。だから、恐ろしかったのです。冬華さまに懐月さんが出会ったとき、何が起こるのかということが」
 我が身をかき抱く千郷の予想は当たったといえる。
 確かに懐月が冬華に出会って以来、館は恐ろしいほどの変化を遂げているのだから。
 どうやら千郷もそのことに気付いているようで、
「ですが、全ては徒労に終わってしまったようですね」
 深い疲れの見える表情で、肩を落とす。
 しかし懐月が邪魔になったというならば、もっとも簡単な解決方法がある。
「何故、僕を追い出さなかったのですか?」
「私は嵐で地盤が弱くなって危ないから、という理由であなたを引き止めました。だから、後になって雨もやんでいないのに懐月さんにお帰り願うというのはおかしいじゃないですか」
 それ以前に、引き止めた側が追い払っては矛盾してしまうということが、千郷の気を苛んでいた。彼女は簡単だからこそ、明かすことなく取り払うのが難しい言い訳を自ら作り上げてしまっていたのだ。
「ですが、あなたほど賢しい方であればいくらでも言い様はあるでしょう」
「そんなことはありません。私が懐月さんに危険を感じたのが二日前。あなたは私が何やら口上を述べたところで、お帰りになられましたか?」
 問いかけられ、懐月は回想した。その頃には、既に彼は冬華と出会ってしまっている。だがそうでなくとも、
「僕はどちらにせよ、始めから家に戻る気なんていうのはありませんでしたからね」
「え?」
 何とはなしに呟く懐月に、千郷は疑問を感じて聞き返した。
「あ、いえ。別にここを出ないというわけではないですから。ですが二日前なら、冬華に出会ってしまっていますから難しいですね」
 笑って話を逸らそうとする懐月に、今度はこちらの番とばかりに千郷は追求を加える。
「どういう、ことでしょうか?」
 少し責める様子もあったので、懐月は諦めて、理由の蓋をこじ開ける。
「僕がこの山に来た目的ですが、道に迷ったわけではないんです」
「そんな──ですがそれ以外に理由などあるんですか?」
 多少なりとも混乱している千郷は、考えをまとめるのもそこそこに懐月に問いかけた。
 彼は種明かしをする奇術師のように両手を広げてみせ、
「というより国道には旅館への看板がきちんと立ってますし、こちらの道は獣道、対する旅館
側は舗装(ほそう)されています。まず間違うことがないんです。僕だってすぐに嘘がばれて問い詰めら
れると思っていたんですから」
 そう言って、懐月は笑ってみせる。
 簡単なすれ違いだったのだ。そのあまりの簡単さに千郷は言葉もなく頭を振り、
「もう、何と言っていいか。私がこの屋敷から出ていないこと、古い人間であることがこんなところで仇になるものなんですね」
「そんなものですよ。失敗というのは、いつも予想しないところから襲い掛かってくるのですから」
 苦虫を噛み潰したように言う。だが、彼は話すのをやめない。
 話を戻しましょう、と一区切り入れて紅茶を飲み干すと、
「実はですね。そもそも僕は自殺するために山に入ったんです。安直ではありますが」
「は──」
 唐突な告白に、いよいよもって千郷は二の句が告げない。
 懐月は余計な質問が加えられてもわずらわしいと、その隙を縫って話しを続ける。
「いろいろ理由はあるんですが、状況としては家に戻ることは自殺するということとほぼ同義になるというほどでしたもので。けれどあなたにこの屋敷に招き入れられてしまってからというもの、居心地のよさにすっかり自殺する気も失せました」
「まさか、懐月さんの身の上がそこまでのものとは思いもしませんでした」
「無理ありません」
 自嘲の笑みは確かに苦労したもののそれだったが、同時にそれは懐月がこの屋敷で決して見せようとはしなかった笑みの形でもあった。
 その顔を見て、千郷は一息ついて瞳を閉じる。
「私は結局、はじめから間違っていたようです」
 数秒を費やしてから千郷は瞳を開け、ソファに預けていた身を起こして背筋を伸ばす。
「最後に一つお教えしましょう」
 彼女特有の優しく、だが張りのある声に引き締められるように、懐月もまた姿勢を正した。
 千郷が告げる。
「あなたが何を求めるかは分かりませんが、それについては冬華様にお聞きになるのがもっともよろしいと思います。ですから、冬華様を見つけください」
「そうですか」
 懐月はかすれそうになる喉を湿らせ、何とかそれだけを答えて、数秒千郷を見据えてから席を立った。
 入り口まで半分ほどを進んで、立ち止まる。
「あなたは、分かっていたんじゃないですか?」
「──何のことでしょうか?」
 背中で問いかける懐月に、千郷は微笑みを混ぜて聞き返すばかり。しかしその顔は雄弁に答えを告げている。
 目にせずとも、懐月はそう信じたかった。
「何でもありません」
「それでは、どうかこのまま部屋を立ち去りください」
「ええ」
 突然の言葉にも懐月は疑問を差し挟まず、ただ一度頷いて、再び足を動かす。
 ドアノブに手を掛けたところで、
「改めて、御礼を言います。あなたのもてなしは、僕がこれまで受けたものの中で一番すばらしかったと。──ですから、有り難う御座います」
 突然の謝辞(しゃじ)に、身を硬くする気配に空気が揺れる。
「いいえ。またきっと、おいでください」
 こうして、千郷のもてなしは終わった。


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