読んでいた本を片付けて一階へ戻った懐月は、御奏の部屋を訪れることにした。
一番新しい記憶が追い出されるように部屋を出たというのは、後味が悪い。
とはいえど、扉を叩いても反応がないというのであればどうしようもない。無断で部屋に立ち入るわけにもいかず、仕方なく部屋にでも戻ろうと廊下を引き返せば、曲がり角からカートを運ぶ千郷が姿を見せた。
すれ違いざまに呼び止めて、足を止める。
「千郷さん。これから御奏さんの部屋へ?」
「ええ。面会でしたら無理ですよ?」
千郷が掌でカートを示す。上に乗っているのはお湯の張った洗面器とタオルの二つで、意図が思い当たった懐月は確かに、と納得した。
術もなく、やはり懐月は部屋へと引っ込むことにしたのだが、御奏が駄目ならば別のことを確かめればよいことに思い当たり、ノブに手を掛けたまま足を止めた。
千郷が部屋に入っていったのは立った今のことだ。それなら、たとえ懐月が土砂の部屋に入ろうとしても見つかることはないのではないか。
甘美な誘惑は、たやすく人を引き寄せる。
ノブから手を離して、元々小さい足音をそれこそ無音にまで引き下げるよう注意しながら廊下を進んでいく。
そして今までの抵抗が不思議に思われるほどの自然さで、懐月は土砂の部屋のドアを開けることができた。
期待していなかったといえば嘘になるだろう。だが、鼻腔(びこう)を突くのが畳の芳香(ほうこう)とあっては喜びより先に戸惑いが立つ。
懐月が望んでいたのは土砂の代わりに地下への階段がある部屋であり、畳の香り漂う部屋ではない。
目を凝らせば、浮かび上がってくるのは木の柵が左右に立ち並ぶ木目の廊下だった。
立ち入り、一番手前の格子から中をうかがえば、ぼんやりと闇に溶ける座敷は無人。
視線をついと上げる。
廊下は闇が立ちこめて奥が見えないが、しかし誰かのいる気配だけはあった。
それを誘蛾灯(ゆうがとう)として、懐月は足を進める。だが立ち並んでいた座敷牢(ざしきろう)が姿を消しても、廊下だけはあてどなくどこまでも伸びていくようで、懐月の胸の裡(うち)に一抹の不安が芽生え始める。
やがて引き返したい衝動に足の運びが止まりそうになった頃、もう一つの変化が生まれた。
分かりやすい、鉄錆(てつさ)びのにおい。
思わず袖を鼻に押し当てて一歩を退こうとすれば、果物の皮をめくるのにも似た感触を足裏に味わい、
「とと」
なんとか転ぶことなく足元を確かにし、前を見据える。
誰かいる。数メートル先の黒が身じろぎするのが見えたし、何よりぼんやりと、白い影が幽鬼のようにそこにあるのだ。
足元に気を払いながら距離を縮めれば、ようやくその姿が確認できるまでになった。既に手を伸ばせば届く距離。
ぽつんと、仲間外れの座敷牢に座っているのは、冬華だった。
「こんにちは。またこんなところまできたのね」
「ああ」
閉じ込められているというのに彼女の表情は酷く明るい。試しに懐月は目前の柵に手を当てるが、びくともしない。
酷く冷め切った心地で、問うた。
「御奏さんがどうなったか分かるか?」
「彼女なら寝ているわ」
静かな問いかけに、鈴を転がしたような返事。
「屋敷の主人はどうなったんだ?」
「あの人なら始めからいたわよ」
楽しむような問いかけには楽しむように。
「それじゃあ、千郷さんはどうして俺に嘘をつくんだろうか」
「千郷は頑張っているもの。それに、女は秘密の一つや二つ、嗜みとして持つものです」
肩をすくめる懐月に、冬華は年上の口調で言い切った。
「それなら、君は一体誰なんだ?」
「……誰なんでしょうね」
冬華は笑う。それこそが彼女の秘密だとでもいうように。懐月との問答こそが、彼女にとっての楽しみのように。
しばし見詰め合い、先に視線を外したのは冬華だった。
「まあ。それはおいおい見つけてゆくでしょう。あなたなら」
その言葉が会話の終わりだと懐月が認識するが早いか、彼は何かに引かれるように後ろ側へと身体を傾け、
「っと」
咄嗟(とっさ)に伸ばした足が踏んだのは柔らかい羽毛の感触で、第三者が見れば書庫から出るときに
足を滑らせたのではという様子。
気が利いている、と今回は冬華の厚意(こうい)に感謝して、懐月は促されるようにして廊下へと出る
ことにした。
冬華に会えた理由は分からないが、彼女は懐月が質問すれば、少々謎掛けを楽しむ癖はあるが、ほぼ確実に答えてくれる。
その中で、千郷は秘密があると彼女は言った。
ならばやはり千郷に当ってみるべきだろうか。
思い立ち、懐月が執務室を通り過ぎたときだった。
「懐月君かね?」
呼び止められ、懐月は足を止める。直後思い出すのは、今朝彼に千郷を問い詰めないでくれと言われたその事実だ。
「主人ですか」
懐月がばつの悪い思いを抱きながら返事をすれば、
「止めても無駄なようだし、そもそも巻き込まれた立場ではこの屋敷は異質だろう」
主人は咎めることをせず、むしろ彼を気に掛けることを言った。
内心はまだ後ろめたさがあったが、核心に触れる内容に懐月は耳を澄ませる。
「千郷であれば執務室にいる。ただ、あまりいじめてやらないでくれ。──まあそれも、君がたどり着ければの話なのだがね」
苦笑に言葉は途切れ、
「どういう、ことでしょうか?」
返事はない。まさか、と弾かれたようにドアノブを掴めば、やはり部屋は施錠───されていない。
「とと……!」
てっきり阻まれると思っていた懐月は勢いを殺すこともできず、内側へと開く扉に吸い込まれるように転がり、
「は?」
一階、玄関ホールに躍り出た。
彼が背後へ目を向ければ、かなり広い空間にいくつかのテーブルが並んでいる。懐月は立ち寄ることがないが、間違いなくサロンだった。顔を戻せば向かいには談話室もあり、右手には奥へ通じる廊下と階段も見えるので間違いない。
今回は冬華が関わっていない。それだけのことで、懐月の背中に冷たいものが滑り落ちた。
走る。この際マナーなどは知ったことではないとばかりに廊下を駆け抜け、ノックもそこそこに千郷の部屋へと入れば、
「また……!」
ステンレスで固められたのはキッチンで、更に食堂へ抜けようと来た道を引き返せば、目に見えていたのは食堂だというのに、足を踏み入れた途端に一階の廊下、懐月はあてがわれた部屋に背を向けて立ち尽くしている。
繰り返しドアを引き返し続ければ、終いには書庫の薄明かりが彼を包み込んだ。
千郷がいるのは執務室。だが今はそんなことよりも部屋に戻ることが懐月の中で大きな目的
に摩(す)り替わりつつあった。
二度三度と試して果たせなければ、いよいよ懐月の主目的は部屋に帰ることになる。
それからむきになった子供のようにドアを開け続け、部屋を渡り歩いてようやく目の前に見慣れた光景が飛び込んできたとき、彼は安堵のあまり膝を突いた。
それからよろよろと立ち上がると、最後の力を振り絞ってベッドの上に倒れこむ。
「何故……?」
うつぶせの体勢でくぐもって響くのは、疑問の一言。
屋敷の不可思議に取り込まれる理由が懐月にはない。彼はあくまで部外者という立場にあるはずだ。
何もかもが分からない。常識に囚われないのであれば、可能性は無限大だ。
どうしろというのか。他人を頼ることさえもできなくなりつつある屋敷で、懐月は積み重なった疲労から瞳を閉じた。
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