いつもよりも少し早い時間。
朝の冷えた空気を震わせて、ノックの音が懐月の鼓膜に届く。
まだ目の覚めない懐月はきっと千郷だろうと、だらしのない声を上げたのだが、
「いや、立ち入るのは遠慮(えんりょ)させてもらおうか」
どこかで聞いたような男の声が返ってきて、慌てて身を起こした。一緒に布団から引き出した両手は宙をさまよい、やがて髪と服を忙しなく撫で付ける。
そんな気配が伝わったのか、相手の男は闊達(かったつ)に笑い、
「慌てずともよい」
「……すみません、主人の前だというのに」
と、口にしてから懐月はおや、と首をひねった。
推測から彼が主人だということは分かるが、それでも断定していい事ではない。
しかし幸いにもその点に注意はなく、懐月は安堵する。
「いや。早朝に邪魔をしたこちらにも非があるのだから、そのまま聞いてくれればよい」
「ですが……礼儀としてどうかと」
「それならば尚更気にすることではないよ。ここで君が辞したところでそれを無礼と受け取るほど、私は腐ってはいないのでね」
誰かを嘲笑(ちょうしょう)するような言い方だったが、彼が口にしたのであればそれが正義の弾劾(だんがい)だと感じられるほど、主人の雰囲気は他とは違った。
だからこそだろう。懐月は後に振り返れば穴に入りたくなるであろうに、ベッドの上に正座をして話をするという間の抜けたことをしていた。
気付かぬ主人は一息ついて、
「実は今日帰ってきたのだが、少し疲れているので部屋で休むことにする。よって、後で挨拶はできないだろうから、今のうちにと思ってね」
「そうでしたか。すみません、主人のいぬ間に勝手にお世話になって」
「気にすることはない。千郷が招いたのであれば私に文句はないのだから」
信頼の色を滲(にじ)ませて、しかし次の瞬間には主人はやや声の語調を落とし、
「ここに来て色々と疑問が出てきただろうが、千郷には何も訊かないでやってはくれまいか」
「え?」
唐突に核心に触れる話題に懐月はついていけず、間の抜けた声を上げるが、主人は気にかけることなく言葉を畳み掛ける。
「彼女とて悪ではない。責めたところで君は自責の念に駆られるであろうし、今何かを事細かに説明することが君にとってよい方向へ向かうとも思えない」
言われ、懐月はようやく完全に目も覚めて、内容に理解が追いついた。
彼には、館の主人に対して聞くべきことがある。
「すみません。であれば、あなたにはお答えしていただけるのでしょうか」
「定型句を使わせてもらうと……私に答えられることであれば」
冗談めかした前置きも今は煩わしく、懐月は逸る気持ちを抑えることなく問いかけた。
「この屋敷には、一体何人の人がいるのですか?」
昨日の昼、千郷に問いかけたものと同じ問いかけだ。彼女が何かを隠しているとすれば、こ
の問いかけに齟齬(そご)が生まれるはず。
屋敷に住まう人数と千郷に対する疑念の解消。両者を紐解くこの問いかけに、主人は一拍考えて口を開いた。
「それには、私も含まれるのかね?」
「それはそうですが?」
「であれば───この屋敷には幾人いるのか、私にさえも分からぬよ」
どういう意味か。疑問が疑問を生んだことを懐月は口にしようとして、遮られる。
「そろそろ時間だ。悪いがここでお暇させていただくよ。これでも長旅に疲れた身なのでね」
収斂(しゅうれん)された言葉に追及を加えるのは無粋というものだ。打ち切られた会話をむやみに繋げるわけにもいかず、あくまで自分は客人という身の上だからと、懐月は客は客の礼儀でもって応じることにした。
「長々とお話ありがとうございました」
「それこそ私の気晴らしのようなものだ」
最後に笑って、主人は二階へと上がっていった。
後を継ぐようにして入ってきたのは、やわらかなノックの音。主人が二度もノックをすることはなく、御奏が早朝に懐月に会いに来るのもおかしい。消去法から、千郷だと判断できる。
懐月が返事を返せば、やはり姿を見せたのは千郷だった。
時計の時刻はいつも通り彼女の現れる時間であり、外は相変わらず遣らずの雨。ただ主人が帰ってきたためか、雨脚は柔らかい。
カートを受け取って身支度を済ませるに至って、懐月は帰りたいということを千郷に言おうとはしなくなっていた。あれだけの不可思議な出来事にあって、納得もせぬままにどこへ身を置こうというのか。
いつもとは違った気分で食堂に足を踏み入れるが、やはり御奏の姿はない。
ようやく通常の会話をできるようになったと自覚した矢先にこの病気である。懐月としては気が気でないので千郷に病状を問うが、
「いえ。たいしたことではございませんので」
との一点張り。こうなればいよいよ懐月も疑念に裡を支配され、つい語気が荒くなる。
「そうであれば朝食ぐらい一緒にしてもいいでしょう。千郷さん、何かを隠しているのではありませんか?」
「いいえ。そんなことはございません」
眦(まなじり)を曇らせ、しかし真剣な表情で即答されてしまえば、懐月も急に大人しくなって、持ち
上がっていた腰を落ち着けるほかない。そもそも意図せず飛び出した言葉だ。
やがて気まずい雰囲気から逃れるように千郷は御奏の元に朝食を取りに行き、二人はそのまま解散と相成った。
朝食を片付けた懐月は無駄を承知で二階へと足を運び、主人のドアをノックする。
だが反応が返ってくることはなく、ドアノブに手を掛けたところで返ってくるのは硬い手ごたえのみだ。
「懐月さん?」
更には、千郷にその姿を見られてしまう。
懐月はいよいよ追い出されるかと覚悟を決めたが、彼の危惧はおろか、彼女が怒りを表すということさえなく、
「主人は外出しておりますので」
とやんわり窘(たしな)められるのみである。
しかしそれが、懐月にとっては解せない台詞であった。何しろ彼は今朝、屋敷の主人と出会い、なおかつ会話もしているのだ。
その旨を告げると、
「え──?お会いになられたのですか?」
彼女には珍しく、呆然という表情が垣間見えた。数瞬のちには元の笑顔が浮かんではいるも
のの、だからこそ却(かえ)って先程の表情が目に残る。
「会うには会いましたが、疲れていたんでしょう。ドアの前で二、三言交わしただけで、二階へあがりましたよ」
説明すると、千郷はわずかだが声を弾ませて頷いた。
「早朝にお帰りになられたのでしょうね」
「挨拶はされなかったんですか?」
「主人は疲れていらっしゃるときは誰にも声をかけずに部屋へ戻られますので。以前であれば女中も多くいましたから誰かが目にすることがあったのですが、私一人ではすれ違うこともあるでしょう」
ですが、と付け加え、
「お客様がいらしていると前もってお知らせしておいたので、懐月さんには一声かけておかれたのでしょうね」
続けて確認しようと思っていたことも口にされて、懐月は口を噤む。
僥倖(ぎょうこう)なのは、千郷との間に食堂での重苦しいものはなくなっていたことだろう。むしろ主人の帰宅を聞いてからと言うもの、彼女の機嫌はよくなっている。
気分よく別れ、千郷がドアをノックするのを背中で聞きながら、懐月はその足で書庫へ行くことにした。
電灯を灯し、本を適当に数冊手にとって書見台に座る。
形は本を読むものだが、懐月は視線を落とした紙面の内容をほとんど理解していなかった。
彼の脳の大部分を占めているのはこれまでに起こった様々な不可思議で、ただ考えるためだけに彼はこの場所へ来たのだ。
真剣に考え事をするのであれば、これくらいが丁度いい。
まず屋敷のことについて知るために必要なのは、この場所について正確な知識を持っている人間に話を聞くことだ。候補としてあげられるのは冬華、そしてこの屋敷の主人といったところだろう。
ただ冬華が屋敷について間違いなく核心に近いことを知っていると言えるのに対して、主人に関しては言葉の端々にそれを滲ませていただけではある。明言を避けているのだ。
そうなると、やはり屋敷を自在に飛び回る冬華のほうに軍配が上がる。
それにただ知っているというだけであれば、千郷もまた怪しい。
理由を挙げるならば、冬華も屋敷の主人も、彼女が現れる直前にどこかへ消えている。主人だけであれば偶然と片付けることもできるが、冬華については怒られてしまうので帰ると、明確に千郷について言及しているのだ。
そもそもこの屋敷に懐月を招きいれたのも千郷だったことを思い出せば、信憑性(しんぴょうせい)が高まる。
結局、御奏以外の全員が怪しいということになってしまった。
その内まともに話せそうな人間を考えれば、まず主人は先程話せないと確かめたばかり。千郷は聞いたところで教えてくれそうにないことが分かっているし、冬華に至ってはどこにいるのかさえ確かでない。
結局のところ、手詰まりだった。
「あー!どうしろというんだ!」
袋小路に閉じ込められた懐月は手に持っていた本を投げ出して、頭をかきむしる。
煮詰まってしまった考えは今にも焦げ付きそうで、ついには頭が煙を上げるのではないかとさえ思える。
書見台に突っ伏して、懐月は放り出した本を手に取る。
結局、これが一番落ち着くのだ。
Copyright(c) 2010 YOSHITOMO UYAMA all rights reserved.