三. 疑念と消失

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 釣瓶落(つるべお)としのように雲が翳(かげ)っても、御奏が姿を現すことはなかった。
 千郷が言うには別に起き上がれないような病ではないということで、夕食を終えた懐月は見舞いに出向くことにした。
 両の手には何もないが、生憎(あいにく)懐月は一文無しだ。ここは大目に見てもらおうと御奏の部屋の前に立つ。
 病状を気にしての控えめなノックに合わせるように、控えめな声が返ってきた。
 中に入れば、パジャマ姿の御奏が無表情でベッドに身を起こしていた。シャツは彼女の身を包んで腕に伸び、右の手首からを引き継ぐのは巻かれた包帯の白い色。
 顔をしかめた懐月に、御奏は微笑んだ。
「見た目だけですので気にするほどではございません。……安心した?」
「最後の一言と、茶化した言い方でなければ」
 軽口を言うだけの余裕はある、ということで内心安堵しつつ、懐月は後ろ手にドアを閉めて窓際の椅子に座った。部屋の間取りが同じなので動きやすい。
 しかし居座る態勢の彼に御奏は顔をしかめると、
「正直かつまじめに言えばあまり近寄って欲しくないんだけど」
「正直すぎる。迷惑なら出て行くが……そこまでひどいのか?」
「肌が荒れているのに近寄られるのは不快だよ。ことに女の子はね」
 目蓋(まぶた)を伏せて呟く口調は平坦だったが、内容は懐月にも理解できる程度に分かりやすい。
 仕方がないと立ち上がった懐月は、閉じたドアを再び開ける。繰り返す動作にドアは抗議の軋みを上げたが、懐月は無視して頭だけを返す。
「それなら、今はこれで十分だ。──お大事に」
 扉を背に一息ついた懐月は、ひとまず書庫にでも寄ろうと身体を離す。
 本を読むというのではなく、単に静かで落ち着ける場所で考えごとをしたかったからだ。
 あまりにも、分からないことが多すぎる。
 だが状況をまとめるくらいはできようと歩き出す懐月に、背後から呼びかける声があった。
「知りたいかしら?」
 聞き覚えのある口調に振り返れば、立っていたのは黒い御髪(おぐし)に雪白(ゆきしろ)の風体。
 まさかと思う間に手を引かれ、
「立ち話もなんですから、こちらへどうぞ」
 驚くほど華奢(きゃしゃ)で滑らかな肌触りに感心しながら連れ込まれるのは土砂の部屋。しかし入り口を潜れば懐月のあてがわれた部屋に辿りつく。
 どこに繋がるか分からない。昨晩の焼き直し。まるで迷宮のような屋敷の片鱗(へんりん)。
 思考の構成要素だけがバラバラに脳内を駆け回り混乱する懐月を尻目に、少女は実に悠々自適に彼を部屋で唯一の座席へ誘う。
 目に入った外は相変わらずの雨で、懐月を屋敷から返そうという気は微塵(みじん)もないようだ。
「ちょっと待ってて」
 どこか子供っぽい響きを残し、少女が出て行く。ドアは文句も言わずすんなり開き、なんとなく懐月はむっとした。
 ともあれ最低でも何が起こっているのかくらいは把握しようと彼がテーブルに手を載せた直後、食器の奏でるにぎやかな音を引き連れて少女が戻ってきた。演奏者は紅茶のカップとソーサーついでポットで、戻ってくるまでの時間で紅茶が入れられたとは思えない。
「ティータイムなんて久しぶりなのよ?」
 言い聞かせるように言う少女に懐月は適当に相槌(あいづち)を返し、目の前に置かれたカップに湯気を立てた香りよい紅茶が注がれるのに驚いた。
 どう考えても、道理に合わない。
 少女は一挙手一投足懐月をかき乱し、主導権を握ったまま優雅に席に着く。
 どう見ても和風の少女なのだが、服装など全てを考慮してもこの屋敷にいることに違和感がない。
「それじゃ、お話しましょうか」
 紅茶を一口飲んでテーブルに肘をつくと、組んだ手に頭を乗せて微笑んだ。
「ここへはどういった目的できたのかしら?」
「いや、別にたいしたことじゃなく、車線を挟んで反対側にある旅館に泊まるつもりが、道を間違ってここまで来てしまって。それで結局、千郷さんに迎え入れられてお世話になることになったんだ」
 少女は納得し、だがすぐに悪気なく問いを重ねる。
「それにしては長くご滞在ね」
「この雨だと地盤(じばん)が弱いから危ないといって、千郷さんに軟禁(なんきん)されてるんでね」
 懐月は冗談めかした表現を使ったつもりであったが、少女はついと視線を逸らすと何事か考える風を見せて、
「千郷は閉じ込めるのが好きなのかしら?私を外に出してもくれないし、ここの主人も離してあげないでしょう?」
 よく分からない事で懐月に同意を求める。言葉というものはどれだけ長大であっても、必要なものが不足していればそれだけで意味が通じなくなる。
 懐月は脳内で自己補完し、その上で問いかけた。
「主人なら今は外出中らしい」
「ふーん。そうなのね」
 閉じ込める、というくだりに関しては、懐月は千郷が少女の身体を心配してのことだろうと理解していた。彼女の、少なくともその紅い瞳は、太陽の光が毒になるはずだからだ。
 他にもいろいろ問いかけたいことはあったのだが、一度脱線してしまえば二度と線路には戻れぬ列車に乗っているようで、懐月は好奇心を呑みこんで御奏のことに話を戻した。
「結局、御奏さんはどういう病気なんだ?」
「そういえばそんな話を持ちかけていたわね」
 まるで脱線も話のうち、と言わんばかりによどみなく頷くと、少女は紅茶を傾けて唇を湿らせた。
「うん。あの子はね、お人形なのよ」
 確かに、彼女に感情はほとんど見当たらない。比喩にしてはいきすぎかとも思ったが、懐月は頷いておく。
 少女はそれを確かめてから再び口を開く。
「それが偶然タマを吹き込まれて、結局訳の分からないままに──」
「どうかしたのか?」
 急に途切れた続きを求め懐月が問いかけると、少女は急に席を立ち、
「怒られてしまうから帰ります。それでは、また会うときまで」
 ととと、と軽やかに絨毯(じゅうたん)を踏み、一拍遅れて事態を把握(はあく)した懐月はせめて最後にこれだけはと声を上げる。
「君!名前は──!?」
「とうか。冬に華胥(かしょ)の華で、冬華よ」
「たとえが難しい!」
「草花の花の難しいほうです。これでわかるでしょう?」
 理解が浸透すると同時、楽しそうな微笑を残して、冬華はドアの向こう側へと消えた。
 まさに止める暇も有らばこそ。今更ドアを開けてみたところで彼女の姿はあるまい、と懐月は手元のカップに手を伸ばそうとして、
「懐月さん。いらっしゃいますか?」
「あ。はいどうぞ」
 あまりにどたばたしていたためだろう。
 千郷が押しているカートの上にはこれまでに何度も世話になったティーセットであり、先程まで冬華としていたのはティータイムだ。
 別に懐月が困るわけではないのだが、冬華は怒られると言った。
 自らの失敗に懐月はテーブルを確認して、絶句した。
 いつもと変わりない、上品なクロスのかけられたテーブルには、本が二冊。いずれも懐月が持ち出していたものが置いてあるだけだった。
 呆然とする懐月に、千郷はカートを押して歩み寄る。
「どうかなさいましたか?」
「いえ。少し眠っていたので、寝ぼけていたようです」
 安心と不安がない交ぜになった奇妙な感情に翻弄(ほんろう)されながらも、懐月はかろうじて取り繕(つくろ)った返事をすることができた。
 その様子に何を思ったのか、千郷は失敗に顔をしかめ、
「気が利きませんでしたね。喉がお渇きになられたらおっしゃってください」
「ま、待ってください。大丈夫です。飲みます」
 残念そうな彼女を咄嗟に呼び止めた懐月だったが、揺れる胃袋にこれだけの水分を摂取できるのかと冷や汗が流れる。
 綺麗にティーセットを並べられたテーブルから千郷に視線を移し、懐月は冬華のことを聞いてみようかと思いついた。
 屋敷に来たときに彼が紹介されたのは千郷と御奏、そして外出中の主人だけだ。
 しかし冬華は千郷のことを知っているようで、どうにも合点がいかない。
「……ところで、この屋敷には僕ら以外に誰かいますか?」
「いいえ。咲音さまに懐月さん、そして私だけですよ」
 何か気になることでもありましたか、と労わるように声を掛ける千郷に礼を言って、懐月は彼女を見送った。
 誰もいなくなった部屋で紅茶をすすり、窓の外へと視線を逸らす。
「……夢、なんだろうか」
 だがそう結論を下すには、いささか腹にたまった紅茶が苦しい懐月であった。


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