三. 疑念と消失

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 変わることなく、空は灰色に蓋(ふた)をされていた。
 景色は水気に曖昧(あいまい)に曇らされ、樹木は水滴を地面に落とし、幾重(いくえ)にも分かたれた小さな流れに吸い込まれてゆく。
 もっとも、天気に関しては懐月(かいげつ)も目を覚ます前から知れていた。
 猫と同様、人間とて大気や天候に左右される気質を持つものなのだ。
 だがさすがに正確な時間を知ることは、彼自身時計というわけではないので知ることができない。
 身体を起こし棚の時計を確かめて、驚いた。既に時刻は昼を回ろうとしていたからだ。
 珍しく千郷(ちさと)が起こしに来なかったためか、兎に角懐月は寝過ごしたことに大慌てでベッドか
ら飛び起き、隣のベッドに置いてある着替えに気がついた。
 どうやら千郷は来たには来たのだが、懐月を起こさずに去っていったようだ。
 落ち着いた懐月は気遣いに感謝もしつつ、起こしてくれればよかったとも思いながら、服を手に取り袖を通した。
 時間から朝食は確実に片付けられているのは明白なので、懐月はあくまでゆっくりと昼食へ向かうことにした。
 時間をゆっくりと消費すれば、おのずと昨晩のことが思い出される。
 明白に覚えているということは、高い確率で夢ではないと言い切れる。だが現実として受け入れるには、いささか冗談のすぎる話だ。
 ひとまず余裕さえあればあの部屋については調べてみようと予定に入れながら、懐月は食堂のドアを開けた。
 目に飛び込んでくるのは、誰もいないテーブルだった。
 窓を叩く雨音に侘(わび)しさを感じた懐月がキッチンへと訊ねに行けば、
「すみません。今日は咲音(さくね)さまが調子を崩されて、昼食が遅れてしまっているんですよ」
 眉尻を下げた千郷に、懐月は驚き、目を見開く。
「え?それは、大丈夫なんですか?」
「ええ。少し体調を崩した、というところですから。このところ雨続きで、気がまいってしまったのでしょう」
 確かに、陰鬱(いんうつ)な空気は人の気を沈ませる。とはいえ出て来れないほどというのは妙だ。
「そういえば、元々身体が悪いんでしたか」
「ええ。ですが起き上がれないから、というよりは悪化させないために私が無理矢理眠らせているだけなんですけどね」
 老婆心(ろうばしん)というやつです、と苦笑するが、裏返せばそれだけ御奏(みかなで)のことを心配しているということだろう。
 懐月は料理の邪魔をするのも悪いと思い、一声かけてから顔を引っ込めた。
 程なくして料理が運ばれてきてから、千郷は御奏に昼食を持っていかなければならないので、と別のカートを転がしながら食堂を出て行った。
 いい歳の男が寂しさを訴えるわけにもいかず、取り残されたような心地で懐月は黙々と昼食を片付ける。最後は手を合わせ、食器をシンクにつけておいた。
 千郷は御奏に食事を与えているのか結局食堂には戻ってこず、廊下に出ても姿は見えない。
 することもなし、と部屋に戻ろうとした懐月は、ふと視線を奥に流した。
 存在感を増して見えるのは、例の土砂の部屋の入り口だった。
 引き寄せられるようにして側には寄るものの、それから先は腕が動かない。まるで波間に漂うように、ドアに近づいては離れを繰り返す。
 やがて意を決して足を止めようとすれば、
「あら。私に何か御用ですか?」
 御奏の部屋から、千郷が現れた。
 見当違いな発言にも感ぜられるが、土砂の部屋の前をうろつくことは、少し見方を変えれば向かいにある彼女の部屋をうろついているようにも見える。
 懐月の裡(うち)にこのまま誤魔化(ごまか)してしまおうか、という考えが鎌首をもたげるが、
「いえ。こちらの部屋がどうにも気になりまして」
 正直に、心情を告げた。
 千郷はやはり抵抗があるらしく、
「ですが土砂の詰まっただけの部屋ですし、いつ崩れるかも分からないので危ないですから」
 いつもの返し文句に、懐月は色を添えてみる。
「外から見ればそんなことはありませんでしたよ」
「そんなことはございません」
 嘘に、千郷は脅(おど)しとも取れる笑顔を顔に貼り付けて、はっきりと即答した。
 あまりに明確な発言に懐月は少々面食らい、場を濁(にご)すように苦笑を浮かべる。
「では、見間違いでしたか」
「そうでしょう」
 肯定。笑顔。だがその穏やかな姿が、懐月にとってはどこか空恐ろしい。
 一刻も早く彼女から離れたい。自身でもそんなことを考えるとはどうかしていると思いながらも、懐月は逃げるように千郷に背を向けて、
「……ご覧になられますか?」
 予想外の声を掛けられた。
「いいんですか?」
 下心を露(つゆ)にする極(き)まり悪(わる)さがにじみ出た口調に、千郷は真剣な表情で答える。
「確かに確かめようのない理由で部屋の立ち入りを禁じてしまっては、変に秘密にしているように思われても仕方ありませんから」
 そう下手に出られては、懐月は自分が疑り深いだけでは、という気になってくる。
 いや、やはりいいですと詫(わ)びる気持ちが動いたのだが、
「どうぞ。こちらに」
 口にする間があればこそ、千郷が扉を開けてしまった。
 開かれてしまえば、懐月も抗うつもりはない。
 書物の世界に引き込まれるごとく首を伸ばし、
「あれ?」
 部屋の半分が土砂だった。千郷の言うとおり、まず目に飛び込んできたのが土砂だった。
 何より、あの染み入るような雰囲気がこの場所にはない。
 戸惑う懐月の横を抜けて、千郷は中へと入っていく。
「電灯の配線は土砂に押し切られてしまったので、すみませんが明かりはありません。注意してくださいね」
 懐月は問えば返すように頷くと、彼女に導かれて扉の奥へ。
 二人並んでみれば、土砂の多さが際立った。
「一人で片付けることなんてできませんし、業者の方に頼むには不便な場所ですから時間がかかるらしく、主人も咲音さまも騒がしいのがお嫌いなので、結局ずるずると」
 ため息をついて、
「みっともないのでどうにかしたいのですが」
「いえ。立ち入らなければどうということはないですよ」
 立ち入ってしまっている人間がいうことではないと苦笑しながら、懐月はひそかに床に足を滑らせる。
 だがどれほどの範囲を確かめようとあの凹凸の感触はなく、ただただ呆然とするばかり。まるで全てが夢だったかのように消えてしまっていた。
「無茶を言い、申し訳ありませんでした」
 謝罪を言葉にするのがようやくで、自己嫌悪と困惑にさいなまれる。
 夢から夢へ。もう何が現実で夢であるのかさえ定かではない。
 どうにか足取りを確かに外に出て、懐月は千郷が扉を閉める音を聞いた。
「千郷さん」
不確かな世界であれば何を言ってもいいだろう。そんな自暴自棄(じぼうじき)めいた感情に突き動かされるようにして懐月は口を開いたが、
「いえ、度々、迷惑をかけてすみません」
「気になさらないでください。慣れない生活が続いて、無理が祟(たた)ったのでしょう」
 言いたいことは、口には出せずに腹の中。
 ただ、そうするにはあまりにも大きな事柄だったのか、つい懐月の口から言葉が漏れた。
「それならば、僕が聞いたあの声も幻聴でしょうか?」
「声、ですか?」
「闊達(かったつ)な中年の声。それだけでなく淑女や青年、子供の声も聞いた気がします。ですが、僕は彼らの姿を見たことはない」
 言ってから、こんなことをまじめに言っていては、気でも違っているのではないかと勘違いされても仕方がないのではないかと恐ろしくなった。
 慌てた懐月は、冗談です、と付け足そうとしたのだが、
「そういうこともあるかもしれません。以前この地には結界が張られていたと聞き及んでいますから」
 千郷は至極(しごく)真面目な顔で話し出した。
 感化されるように懐月もなんとか話についていくため頭を回す。
「……結界というのは通常、僧などが修行をするのにその妨げになるものを立ち入らせないようにするものでは?」
 ええ、と千郷は相槌(あいづち)を打ち、
「ですがその中にいるものも外には出られません。彼らは結界の中にいることで外にあるものから守られるのですから」
「つまり、互いに互いの領域には立ち入れないと?」
 結界を張ったものが外に出ることができないのであれば、それは外側からも結界を張られているということになる。
「ええ。ですからそれらの声も、ここから出ることができなかったものたちの声ではないでしょうか?」
「……ずいぶんと薄ら寒い話ですね」
 彼にとって好ましく趣ある屋敷で二人話しているというのに、懐月の心は弾むどころか不気味の色に染まりつつあった。
 結界といっても、霊的なものを妨げるというような意味は通常ない。元々が清浄な領域と不浄な領域との区切りを表す仏教用語の一つだ。
 だが懐月はあの少女との邂逅(かいこう)以来、異界に迷い込んだような心地になっているのである。
 そんな気分のところへ千郷からそんな例え話をされて、懐月の困惑は余計に深くなる。
 何故彼女はこんな話をいきなり始めたのか。重ねて懐月が問いかけるより先に、
「それでは、食器を片付けなければならないので失礼いたしますね」
 ああそれから、と、
「先程の話は気晴らしのようなものですから、気になさらなくても結構ですよ」
 付け足す口ぶりがあまりにさりげなかったので、懐月はそれ以上訊ねることもできず、部屋へと戻ることにした。
 最後の言葉に狐に化かされたような気分の懐月であったが、気にしないというのはいい考えだと思った。
 深く息を吸い込んで、 吐き出す。
 家庭教師や千郷との今の会話、あったかどうかも分からぬ謎の声に地下室の少女。ここでもまた、現実と夢が混ざり合っている。
 この二元論(にげんろん)から逃れることができない。思いのほか重たい混乱に押しつぶされていることに気付いた懐月は、一笑して部屋へと戻ることにした。
 どうせ何もわからぬ異界にいるのであれば、本という世界に逃げればよい。


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