二. 見えない声と座敷牢

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 目を開ければ丑(うし)の刻(こく)、というのはいささか気分が悪い。
 何も考えずにもう一度眠りにつけばいいのだろうが、一度目覚めた頭は不思議なほどにそうすることを拒み、懐月は仕方なく身体を起こすことにした。
 本でも読めば、気分も変わるはず。そう信じて、窓辺のテーブルに着き、スタンドライトに手を伸ばす。
 目が覚めたのは、家庭教師をしていたときの朝の仮眠、ついで昼食を摂り、家庭教師の続きを終えた後に明日の練習問題を作成しているときにまた書見台に突っ伏してしまっていたのが原因だと分かっている。
 よくよく眠るものだ、と懐月は己の所業にほとほと呆れ返ったが、かといって過去が変わるわけでもなし、意識をできうる限り書物へと移す。
 途端に、渇きを覚えて席を立った。
 まったく言うことを聞かない身体だ、と苦笑して部屋から出れば、時刻に対する気分からか妙に廊下にまとわりつく影の色が濃いように感じられる。廊下を照らそうとする電灯の明かりさえ、床の柔らかい絨毯(じゅうたん)に、足音と一緒に吸い込まれてしまうかのようだ。
 こういった場所にこそ恐怖というものが芽生え、古今東西様々な化け物が誕生しえたのではないだろうか。洋館であれば、急に女の叫び声が聞こえ、それが誰かの死ぬ前兆であるといったように。
 読んでいた書物に影響を受けながら歩く懐月に、
「バンシー。語源はゲーリック語で妖精塚の娘、でしたかしら?」
 突然、壁から声が飛び出してきた。
「確かに、私も幼い頃には暗がりにそのような影を感じましたが、結局のところ、そういったものに出会うことはありませんでしたわね」
 聞こえてくる声は淑女のもので、耳を澄ませば壁の手前、丁度壁に添えて人が立っているのであればその位置から流れてくる。
 懐月は寝言に言葉を返すような気分で、口を開いた。
「例えどのようなものだろうと、恐怖心というのは大切なものだ。薄れれば薄れるほど、危険に対する意識も欠如していく」
 すると淑女(しゅくじょ)の声は含み笑い、そうですわね、とそれっきり。
 気付けば彼の足取りは夢遊病者(むゆうびょうしゃ)のように頼りなく、瞳も半分閉じられて、いつ眠りに付いたとておかしくない。
 ならばこれは懐月の見る夢だろうか。
 ふらふらとキッチンにたどり着いた彼は、棚に置かれたコップを取って水を汲む。
一息に飲み干せば、懐月のつく息に重なって、もう一つ吐息が背後から。
 しかし懐月は振り返らずにもう一杯水を注ぎ、その水音に重なって笑みの声が背中に投げかけられた。
 声は懐月と歳が変わらないであろう青年の声音で、
「無色というのは何も水のような透明色のみを言うわけではないと思わないか?」
「どういう意味で?」
 あっさり言い返す懐月に声は楽しそうな色を混ぜ、説明する。
「透明というのはどの色にも変わることができる、という意味で色を持たないから無色というだけだ、ということさ」
「それなら、別の無色とは黒か?」
 水の満たされたコップを脇に置いて、懐月は続ける。
「どのような色にも染まらなければ、それ以外の色をもてない。ならばそれもまた無色だ。他に色がないのだから。もっとも、黒という色を持つといえなくもないが、それはあくまで名称の問題になる。それならば透明も、透明色という色を持っていると言える」
「そんなものは批判者にでも説明してやってくれ」
 なおも続けようとする懐月の言葉を、声は苦笑を付随させて遮った。
「俺がしたいのはあくまで俺の考えでの無色の定義だ。だからお前の考えもまた正解の一つになる。だが、俺が考えた色は白だったんだがね」
 白か、と懐月が呟き、声はああ、と頷く。
「白の画布(がふ)は何色にも染められるが、だが本質的には何者にも染まっていない。色を混ぜ込んだとしても融和(ゆうわ)する。全てを飲み込む黒とは正反対だ。だからこそ、人は黒を恐れ、白を求める。そう考えれば白は黒を、邪(よこしま)なるものを封じるという意味さえもあるかもしれないな」
「神社などにある札が白地なのはそのためか?」
「そんなことは知らない。言ったろう?俺がしたいのは、俺の考えでの無色の定義だと」
 コップの置く音が聞こえ、声はそれきり聞こえない。
 懐月もまたコップの水を飲み干し、シンクにつけて食堂から廊下へと抜けた。用は済んだのだから、これ以上うろつく必要はない。
 廊下を折れてドアノブに手を掛けると、引き止めるように、懐月に呼びかける声がした。
「赤っていうのは、何を連想する?」
 小さな少年の声に、懐月は特に何も考えることなく、相応しくない答えを返す。
「血の色だ」
 しかし少年は押し黙るでも脅えるでもなく、そうだね、と含み笑った。
「でも、本当の血には二色あるって知ってる?」
「動脈と静脈だろう」
 懐月にとっては当たり前のことだが、少年の声の求める言葉ではなかったようで、声は不貞腐れたようになって、文句を言う。
「そんな難しいことは分からないよ。僕が言いたいのは、普通の血と、忌(い)み嫌われた血、っていうことだもん」
 子供らしい言い方を払拭(ふっしょく)するほどに、中身は生々しいものだった。
 しかし懐月はその違和を気にすることなく、むしろ深く納得して言葉を返す。
「忌み子のことか」
 昔の習慣だ。俗に言う呪われた子供。殺すか、遠ざけるか、ともあれ近くに置くにはおぞましい対象とされていた。
 予想外に早い理解に、少年は嬉しそうに移動する。
 懐月は従うようについていきながら、声を聞いた。
「色をなくして生まれてきた奴はみんな閉じ込められるのさ。殺すと家のハンエイがそこなわれるっていうし、かといって側においておくにはおぞましいってね。今はそんなことがないらしいのはこの前来た奴に聞いたけど、昔ってのは変えられないからね。嘆くだけ無駄なのさ」
 彼の言い方は嘆いたもののそれで、だから懐月は問いかける。
「君もまたその一人だったのか?」
 少年は、さあね、と含み笑うと、
「ま。差異はいつだって淘汰される。人と違うってことは、それだけで攻撃する理由になるらしいからね」
 そう告げて、消えていった。すると彼こそが意識を曖昧(あいまい)にしていた膜であるかのように、懐月の瞳が急速に焦点を合わせていく。
 真っ先に視界に飛び込んできたのは、土砂の部屋の入り口だった。
 背後にあるのは千郷の部屋であり、今彼女が出てくればあらぬ嫌疑(けんぎ)を掛けられても文句は言えまい。そうならないためには今すぐにでも立ち去らなければいけない。
 だというのに、縫い付けられたかのように懐月の足は動かなかった。
 おかげで心臓は早鐘(はやがね)のように鳴り響いて警鐘(けいしょう)のようにさえ聞こえ、暗闇は視界を閉ざして遠くが見通せないことが不安をあおる。
 思わず、目の前の扉へと逃げた。
 確かにあの場ではもっとも近く、そして誰も立ち入らないが故に安全な空間だと考えても仕方がない。しかしこれでは虎から逃れるべく虎穴(こけつ)に入ったようなものだ。
 全てが手遅れで、本当に光一つない暗闇に彼は閉じ込められた。
 部屋を包み込むのは雨の奏でる旋律。背後では蝶番(ちょうつがい)が間延びした声を上げて、ドアの閉じる音が続く。
 暗闇に慣れた懐月は辺りを見回して部屋を確認する。
 窓はなく、そして彼女の言っていた土砂というものが影も形もない。
 何故、と疑問に突き動かされるように足を進めれば、何かにつまずいて身体が傾いだ。
 慌てて足を出してバランスを取り直し、原因に目を凝らせば、床にはわずかな凹凸があるのが確認できた。見れば大きめの板らしい。
 足で突いてみれば板の引き摺られる手ごたえがあり、隠れるようにしていた空間がわずかに顔を覗かせた。
 目を凝らせば、中にあるのは階段だということが分かる。
 後付なのか、ともかく彼のつまずいた板は蓋代わりに使われていたらしく、階段自体は蓋のない形で存在しているようだった。
「まるで三流ホラーだな」
 鼻で笑い飛ばす懐月だったが、下らぬ展開でも自らが直面すれば空恐ろしいものだ。
 引くか進むか。わずかに考え込む。
 しかし今更出て行ったところで、と奇妙な諦念を胸に抱いた懐月は、板をずらしてできた隙間からゆっくりと足を忍び込ませる。
 階下は冷たく、まるで冷気の靄(もや)に足が包まれたかのようだった。
 幸いにも階段は普通のものとさして変わらず、両側は壁ということで足を踏み外す道理はない。それだけのことに深く安堵して、懐月は一歩一歩階段を下っていった。
 闇の中ではどれだけ歩いたか分からず、幾度引き返そうと二の足を踏んだかは分からない。
やがてドアが見えた頃には、様々な安堵から懐月は深く息をついた。
 あまりに長時間歩いていたように感じて、もしかすると夜が明けているのではないかとさえ思われたが、確認する術はないことだ。割り切った懐月はドアに手を掛ける。
 押し開ければ、またも暗闇。
 もしや土砂の部屋へと舞い戻ったのでは、と恐怖を覚えた懐月は、むしろ怒られるほうがましだときびすを返し、
「──馬鹿な」
 ドアが、忽然(こつぜん)と姿を消しているのに気がついた。
「どうしてだ!確かにここにはドアが……!」
 手を伸ばすが、何の手ごたえもない。
 木霊(こだま)した叫び声は何十にも重なり、変化し、野獣(やじゅう)の咆哮(ほうこう)のように響き渡る。そこに自分のものではない声を聞いた気がして、懐月は思わず口を閉ざした。
 しかし反響する声は失われず、いや、もしかすると失われているのかもしれないが、暗闇に錯乱した懐月の耳朶(じだ)にはこびりついたかのように響き続ける。
 いよいよもって発狂しようかという心地になって、出口を求め走り回ろうと彼が四肢に力を込めたとき、声が聞こえた。
 それは思いもよらず、すぐ側からで、
「大の大人がそんな大声で叫ぶなんて、はしたない。そう思わないかしら」
 玲瓏(れいろう)と響く鈴の音のような声。ほんのわずかなそれが、懐月の意識を錯乱から呼び戻した。
 次第に慣れていく目がまず捕らえたのは、色をなくしたが故に紅く濡れた双眸(そうぼう)だった。続いて真っ白な着物、いや、死に装束のような、死者が着込む襦袢(じゅばん)が浮かび上がってくる。
 明らかに異質。しかし懐月は疑問を抱かない。
「君は……」
 問いかけに応じるようにして最後に現れたのは、真っ白な肌を映した顔の輪郭、そして闇に溶け込むように伸びた漆黒(しっこく)の髪だった。
 整ってはいるがやや人懐っこく、幼く見える顔立ちが、つと持ちあげられる。
「迷ったのかしら?それとも、降りてきたのかしら?」
「あ?え、それは、両方だろう」
 問いを無視されるとは思わなかった懐月は意味を図りかね、何も考えることなく答える。
 少女は微笑むと、
「あらあら。幸か不幸かは分からないけれど、あなたはこんなところに来てしまった」
 話が繋がらない。しかし彼が迷った、ということを彼女が知っていれば、おかしな返答ではあるまい。
 しかし気付けぬ懐月は眉根を寄せて腕を組み、少女は面白がるようにころころと笑う。
「さ。もう帰りなさい。夜に長いこと起きていると、悪戯(いたずら)好きなものに騙(だま)されるわ」
 持ち上げた細指の先を追えば、そこには先程消えたはずの扉とはまた違う扉が静かに佇んでいた。
 とはいえ懐月の入ってきた場所から一メートルと離れていない場所だ。見覚えがないということがあろうはずはない。そう思った彼は視線を戻し、目前に堅牢(けんろう)な木の柵が立ちはだかっていることに気付いた。
 次から次へと、と懐月は頭をかきむしりたくなる。
 ドアがあるのは彼の側だ。つまり閉じ込められているのは少女ということになる。
 どういうことだ、と重なり続ける疑問に耐えかねたように懐月が一歩を踏み出せば、
「な……!」
 目前に迫ったドアがあり、わずかに開いていたらしいそれは懐月を迎え入れるように身を引いていく。思わず前のめりになった彼はそのまま倒れこんで、羽毛の感触に抱かれた。
 慌てて身体を起こした彼はすぐさま背後へと駆け戻るが、
「は?」
 そこは見慣れた廊下で、寝ぼけ眼の千郷がパジャマ姿で歩いているだけだ。
 固まった懐月に気付いた千郷が、珍しくしまりのない笑みを浮かべる。
「あらあ。こんばんわあ」
「え、ええ。こんばんは」
 間延びした声に張り詰めていた気が一気に緩められ、懐月は思わず崩れそうになった。
 これはこれでおかしいと思うのだが、いかんせん先程の現象に比べて右斜め上辺りにおかしさがある。
 呆れ半分の懐月の顔を覗き込み、千郷が首を傾げる。
「どうかしましたかあ?」
「いえ、ちょっとトイレに」
「はいはい〜。お先でした〜」
 手を振ると、千郷はそのまま自室へと戻っていった。
 口に出したからか尿意を覚えた彼は本当にトイレへ行ってから、自分の飛び出した入り口を確かめる。
 どうみても、それは懐月のあてがわれた部屋のドアであった。
 首をひねり、まるで狐につままれたような気持ちで立ち尽くし、しかし考えたところで何の糸口も見つからずに諦める。
 身体は気だるさに重くのしかかり、彼は大人しくベッドへと倒れこんだ。
 草木も眠る丑三つ時。夢を見たのは彼とて同じ──


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