二. 見えない声と座敷牢

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 夢を夢だと理解しながら見る夢を、一般には明晰夢(めいせきむ)と呼ぶ。
 暗闇の中、足元だけを確かにした懐月は、そんなことを考えられるほど、これが夢であるという自覚があった。
 何故なら匂いもなく、音もない。その矛盾を明確に理解できている。
 もしかするとそれすらも夢の一端かもしれないと疑心暗鬼にかられながら、彼はふと、男の声を耳にした。
「君はどうしていつまでもこの屋敷にいるのかな?」
 聡明そうな、はっきりとした声だ。懐月はそれに当たり前だろう、という響きを持たせた台詞で答えた。
「外は嵐です。下手に出れば、地盤のゆるいこの辺りではがけ崩れに合う」
 まるで自分の知っていたことのように言う懐月に声は苦笑して、不可思議な質問を返した。
「では、この嵐はいつか途切れるのかね?」
「……当然でしょう。嵐は自然のものです。であれば、いつかは姿を変えて晴れになる」
 然り、と頷く気配とともに言葉が届く。
「だが時として天候は左右されるものだ」
「古来の風習でも持ち出しますか?」
 懐月が引き合いに出すのは雨乞いのことで、彼にとっては不確かな部類に入る風習だ。
 声はその考えを理解したらしく、
「悪魔の証明はいつであろうと全ての現象に理由を持たせる。その証明もまた、悪魔の証明の如し。蛇の円環のようなものだよ」
「悪魔の証明が証明できないことを証明するのもまた、悪魔の証明ですからね」
 存在しないことは証明できない。ある意味、全ての謎に対する究極の回答であり、究極の逃避だ。説明できないと説明しているのだから。
 つまり、天候が自然以外に左右されないと否定することはできないということだ。
「それでは、あなたはこの嵐が人為的なものだと?」
「あくまで一つの可能性を示唆(しさ)しただけだ。それをどう感じるかは君に委(ゆだ)ねよう。この会話を覚えているのであればね」
 夢であることを告げる夢の住人。であればこれは懐月にとっての情報整理だと考えることもできる。
そうなると声の提示する問題は時間を割くべきものなのかもしれないが、夢であるが故に深く考えないのか、懐月は間の抜けた問いかけを発した。
「そういえば、あなたは誰ですか?」
 返事はノックの音だった。
 現実からの呼びかけに暗闇は徐々に取り払われ、貝が口を開けるように視界に光が取り込まれてゆく。
 まだ判然(はんぜん)としない意識のまま、続く物音をなくすためだけに声を返せば、ドアの開く音がして、小さな車輪の音が転がる。
 そこで音はしなくなり、安堵してもう一度意識を貝の中へと戻そうとすれば、
「うわ!」
 急に顔に暖かなものがかぶせられ、懐月は飛び起きた。
「目が覚めましたか?」
 悪戯っぽく笑うのは千郷の姿で、懐月はようやくここが屋敷の中だということを思い出す。
 夢は夢のまま貝の中へ取り残され、閉じあわされては取り出すことも出来ない。
 千郷の手には崩れた蒸しタオル。それが懐月の顔にかぶせられたもので、いまだ湯気を上げて二人の間を染めている。
「それでは、朝食はいつも通りですのでよろしくお願いします」
 そう言い残して、千郷は部屋を去った。遅れること十数分で、身だしなみを整えた懐月もまた廊下に姿を現す。
 ようやく慣れてきた朝にあくびをかみ殺しながら、トイレを経由して、誰かが入っているようなので二階のトイレへ足を運んでから食堂へ小走りに向かう。
 いつも通りの朝であり、御奏は相変わらず姿勢正しく座っていた。
「おはよう、御奏さん」
「おはよう」
 簡素なものだったが、それよりも返事が返ってきたことが懐月を喜ばせた。
 声を出す代わりに頭を揺らすジェスチャーはなくなっていたが、それでも音があることが懐月にとっては有り難い。
 彼が席につけば、計ったような頃合で千郷がカートを押して食事を運んできた。
 今日の朝食も変わることなくおいしかった。
 食後はいつも通りの流れで、千郷は仕事に移り、御奏はふらりとどこかへ消え、懐月は書庫へと本を読みに移動する。
 ドアを開ければ、御奏の姿があった。
 妙によく出会うな、と懐月はそれだけで意識から彼女を外し、適当な本を見繕いに本棚の間に消える。
 一際薄闇に沈んだ視界に慣れていない懐月は、まず先に壁際にあるスイッチを押した。
 壁際の電灯は薄く本の背表紙を照らしあげ、表題が彼に分かる形で浮かび上がる。
 そして一冊の本に気を留めたとき、
「挨拶くらいはするものじゃない?」
「うわ!」
 急な背後からの声に、懐月は思わず警戒心を露(あらわ)に振り返った。
 立っていたのは見知った少女で、彼は額に手を当てて息をつく。
「……急に気配もなく近寄って声をかけないでくれ。心臓に悪い」
「それはごめんなさい。ところで勉強を見てくれない?」
「君は自分のペースで話しすぎだろう」
 とはいえ勉強を見ることは懐月とてやぶさかでない。
 昨日の採点は、懐月に忘れているところが多々あると教えてくれていた。
 知識が減れば本を理解するのに手間取って、それがあるのと比べれば楽しみは半減するといってもいい。それに懐月の裡には千郷の負担になっているという負い目もある。
 色々な理由から懐月が了承すれば、御奏は丁度よいということで書見台の椅子に座り、ノートと参考書を広げた。
 懐月も書見台に歩み寄ろうとして、しかし立ちっぱなしでするには足腰に酷だろうと頭をめぐらせて、部屋の隅に置いてある予備の椅子に目を留めた。
 椅子を書見台の右後ろに移動して、先程見つけた一冊の本を上に乗せる。
 懐月本人は御奏の後ろに立ち、訊ねた。
「それで、今日の範囲は?」
「こことここ」
 参考書の目次で彼女が指した題目は、確かに懐月の採点した範囲を理解していなければ、間違いに間違いを重ねることになりかねない。
 だが即座に説明を始められるほど懐月も勉強家というわけではない。ひとまず御奏には先日の復習をするように指示を出し、椅子に腰掛けて本を膝に参考書を流し読む。
 若干の眠気が腕を引いたが、目頭を圧迫してどうにか難を逃れる。
 一通り読み終わり、内容も大体理解できたところで、御奏の声がかかった。
「できたよ」
 懐月は立ち上がり、御奏の隣に立ってノートを手元に滑らせようと手を伸ばすが、
「あ。ちょっと用事。採点は座ってやっていいよ」
 唐突に告げて、彼女は席を外した。
 小走りに部屋を出て行く様子に何事か、と思うが、女性の所用を探るのは下世話だな、と懐月は手元のノートに意識を戻す。
 参考書の解説をおおよそ八ページ読む程度の時間で、それなりに速く筆記しなければいけなかったはずだが、昨日と同様に文字は綺麗だ。
 よって採点はやりやすいのだが、昨晩も遅くまで本を読みふけっていたためか、いよいよ文字の羅列(られつ)が眠気を誘う。
 その度に意識を戻して採点を続けていた懐月だったが、積もり積もった忍耐力は採点が終わると同時、力を失って懐月へとのしかかり、意識を海底へと沈めてしまった──はずだ。
 どうなのだろうか、と疑問を抱く懐月に、声がかかる。
「おや。君は現実と夢が判別できないのかね?」
 急にかかった声に、違和感はない。懐月はごく自然に声を返す。
「夢と言うのは元来、本当にそうなのか判別できないものですから」
「然(しか)り。私としては久しぶりだ、と言いたいところだが、覚えているかね?」
 残念ながら、夢を覚えていられるような技術を彼は持ち合わせていない。
 首を振って、懐月は答える。
「……覚えていませんね」
「そうか。では君にとっては、はじめまして。娘とは仲良くなれたかね?」
「娘?」
「便宜的にそうなっている、というだけではあるがね」
 苦笑に、懐月の頭に養子という単語が浮かんだ。
「まあ、そんなものだと思ってくれていい。それで、どうかね?」
 心を読んだような物言いを追求させることなく、声は矢継(やつ)ぎ早(ばや)に問いを重ねた。
 懐月は少し考えて、
「まあ、それなりには。僕が勝手に抱いていた誤解は解けた、というところでしょう」
「それは何より。相手を知っている、というのは大抵の場合、勝手な先入観が作り上げている印象だからね」
 何が言いたいのか、と懐月が口にしようとすると、急に空気が重さを増した。続く声は、硬くなった空気を貫くごとき鋭さを持っていて、
「俗に心といわれるものを持ち合わせていないモノに、それを与えて幸せだと思うかね?」
「あって当たり前のものを手に入れて、不幸になるはずがないでしょう」
 愚問だ。懐月は即答する。
 しかし、早計(そうけい)、それは早計だよ、と声は謡(うた)うように前置いて、
「知らないほうが幸せに過ごせることが世の中にはある。知ってしまえば、以前の自分が不幸だったと考えてしまうからね。ならば、わざわざ気付かせる意味はない」
 嘆(なげ)くような響きだった。だからこそ、懐月はその悲観論的(ひかんろんてき)な台詞に反感を覚える。
「そんなことはありません」
「何故だ?」
「無知が無知のままでいるのは、閉鎖された空間であれば幸福であるのかもしれない。だが更なる高みを知る人間がいる場であれば、彼らには立ち位置を教えてやる義務がある」
「そんなものは押し付けにすぎんよ」
 失笑する声に、しかし懐月はなおも縋る。
「人は弱さゆえに群れます。つまり必ず誰かと共に歩むものです。ならば、遅れている人間は待ってやればいい。怪我をしているのであれば手当てをしてやるのは当たり前で、腹を空かせているのであれば食べ物を与えるべきです」
「……ああ。確かにそれは我々の理想系の一つだろう。だが彼女がそれを望んだところで、どうすることもできないことはあるのだよ」
 嘆きはやがて哀しみに。どうして、と懐月が問いかけようと顔をあげれば、
「おはようございます、懐月さん。教師が寝るのはどうかと思いますが」
 何故か慇懃無礼(いんぎんぶれい)に感じる敬語が背後、正確には右にずれた位置から聞こえた。気だるい響きは、御奏のものだと理解して懐月頭を振る。
 何か不可解だったはずだが、覚めてみればどのような夢を見たのかは記憶に残らない。彼にとっては当然のことだ。
「僕はどれくらい寝ていた?」
「三十分ほど。別にすることもないから、あまり気にしなくてもいいよ」
 懐月が顧(かえり)みれば、彼女は彼の用意した椅子に腰掛けて本を読んでいた。題名を見れば、それもまた懐月の持ってきたものだということがわかる。
 中々に難解な書物のはずだが、彼女は短時間で半分ほどを読みきってしまったようだ。
 優秀なのだな、と逸れ続ける懐月の思考を元に戻すように、御奏は声をかける。
「それで見直しは終わらせたけど、再開できる?」
「ああ。すまない」
 立ち上がり、一言わびて、懐月は席を譲ってから全身を思い切り伸ばす。若干視界が白く染まったが、今はそれさえも心地よい。
 千郷の言うとおり、一度こなした類の問題について彼女は優秀で、練習問題に関してはほとんど間違いがない。あってもちょっとした計算間違いといった程度だった。
 御奏が書見台の椅子に腰掛けて用意するのを待ってから、
「それじゃ、次にいくかな」
 夢の世界に旅立つ前に理解した内容を思い出しながら、懐月は手に持った参考書を彼女のノートの上に置いて、横合いから解説を加えていく。分かりにくいところに関しては書見台から拝借(はいしゃく)したメモ帳とペンを使い、詳しく説明した。
 一度仮眠を取ったおかげか、冴えた頭は雑学も交えながら分かりやすく授業を進めていく。
実に順調だった。
 だというのに、懐月はどこか落ち着かない。
 果たして自分のしていることに意味はあるのか。そんな疑問が、いつの間にか頭の気がかりになるところに鎮座(ちんざ)していたから。
 まことに、夢というのは恐ろしい。


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