二. 見えない声と座敷牢

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 採点の帰り、執務室を通り過ぎると、まだ中では唸り声が響いていた。
 あの様子では夕食は遅れるだろうと判断してのんびりと部屋で読書にいそしんでいた懐月だったが、千郷はほぼ定刻通りに夕食を告げるノックを部屋に届けてきた。
 千郷の顔には執務室での奮闘(ふんとう)が露(つゆ)ほども浮かんでおらず、食堂にて料理を眺めてみてもいつもと比べて何の遜色(そんしょく)もない。
 あまりの完璧さに、懐月は言葉も忘れて恐れ入る。
 逆にいつもと違うのは御奏のほうだった。
 懐月がふと気がつけば彼女は彼の様子をうかがっており、しかし気付かれると視線を逸らして何事もなかったかのように食事を続ける。
 とある種別の漫画などにおいては恋の兆しだろうが、この場合にはむしろ納品を催促(さいそく)される会社員というのが適切だろう。勿論彼女の求めているのは昼間の大学ノートだ。
 持ち合わせていないものの催促に懐月は肩身を狭くして目線で合図を送るが、当然通じる気配はない。理由を知らぬはずの千郷が微笑ましく見守るのみだ。
 やがて懐月が妙な面映さに包まれそうになったとき、
「ごちそうさま」
 幸か不幸か、御奏が席を立った。
 彼女がそのまま食堂を出れば幸い、だったろうが、ドアの前で一瞥(いちべつ)されては、むしろ不幸へと天秤は傾きそうだった。
 御奏がいなくなったことに懐月が力を抜いたのを見て、千郷は楽しそうに声をかけた。
「ふふ。何があったかは聞かないことにいたしますね」
「いや、別に大したことでは……」
「そんなことを言うものではありませんよ。咲音(さくね)さまが口に出さないということは、秘密のことです。ですから、きちんと口に蓋(ふた)をしていてください」
 懐かしい言い回しを聞きながら、懐月の頬は引きつっていた。千郷の表情を見れば、どうにも多大なる勘違いが生まれている気がしてならなかったからだ。
 ほどなくして懐月も料理を全て平らげると、千郷は皿洗いにキッチンへと引っ込んで、苦手な空気も霧散(むさん)してくれた。
 本来であれば明日に回すつもりだったのだが、ああまでされては仕方がない。
 自身でもどうかと思う考えに突き動かされるようにして、懐月は部屋に戻り、ノートを手に突き当たりより一つ手前の部屋に立つ。
 薄暗い廊下の角から今にも千郷が現れるのではないか、と心配し、何故そんなことに気を割かねばならないのか、とため息をつく。既にそういう歳でもないと懐月は思っている。
 ただ時刻的に少し無礼か、という気持ちを振り払うように、勢いよくドアを叩く。
 若干大きめの音が室内に吸い込まれて数秒。声が返る代わりにわずかにドアが開き、目だけが彼を出迎えた。
「や」
 なんというか、既にこの程度のことで驚かなくなっていた懐月は片手を上げて大学ノートを示し、自分の来た目的を伝える。
 それで彼女はわずかな警戒を霧散させ、部屋から全身を現した。
 まるで小動物だな、と本人に知られれば臍(へそ)を曲げかねないことを頭に置きながら、彼はノートを差し出す。
 両手で受け取った彼女は、軽く頭を下げる。
「……ありがとう。助かったわ」
「ああ。それは中身を見てから言ったほうがいいかと。僕も久しぶりだったから、もしかしたら解答に間違いがあるかもしれない」
 独白に御奏は目を丸くして、しかし意外にも微笑んだ。
「それで採点すると言い出したの?」
「それも含めて勉強ということで。問題の解き方自体は間違っていないはずだから、もしおかしいとすれば計算間違いくらいのはずだから」
 わかりました、と頷いて、御奏はノートに目を通し始める。
 やがてぱらぱらとめくれていく紙が止まり、真剣だった目つきがわずかに見開かれた。
 懐月にとってはほんの遊び心。それもテストでしかしないことだったが、だからこそ彼女の目にはどう映るのか。
 答えは、無言でノートを閉じ、胸に抱え込んで、頭を下げるというものだった。
「ありがとうございました」
 言葉は心から出たもので、懐月もやったかいがあるというもの。
 髪に隠れて表情が見えないのが惜しいというのが、素直な感想ではあったが。
 御奏という人間は別段無愛想というわけでも、人に冷たいというわけでもない。無口で、人見知りをするというだけなのだ。
 そこに気付けたことが、今回の提案の、懐月にとっては最大の利得だったと言えよう。
 遠くから眺めていただけでは、それがなんであるかは分からないものだ。近寄ってみて、初めて彼は彼女の人なりを知ったように。
 古人曰く、嘉肴(かこう)ありと雖(いえど)も食らわずんばその旨(うま)きを知らず。
 その由来の如く、知らなければ分からない。当たり前のことだ。
 一人で納得していると、御奏はいつの間にかドアの向こうに首から下を隠していて、
「それじゃ、おやすみ」
「ん?ああ。おやすみ」
 引っ込んだ。
 言葉を交わすようになったというだけで、懐月は妙に心が軽くなった。簡単な繋がりがあるだけでも、顔を合わせるのであればだいぶ違う。
 胸のつかえが取れたことにすっきりとして、懐月は風呂へ向かった。
 これで、今日はよく眠れる。


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