鈍色(にびいろ)の空の振り落とすのは、世界を薄く包むほどには勢いのある雨だった。
ぬかるんだ山道は人が通ることを拒むように幾筋もの小川を作り、しかし水の恵みに樹木草花は喜ぶように揺れている。
その静けさに一石を投じるように、泥水が跳ねた。
原因は疲れた様子で山道を行く、場にそぐわぬ軽装の青年だ。
春の到来を経て夏にかかろうという時節だが、冷えた空気は辺りに立ち込めて、風景に淡くかかっている。
青年の服装ではこの冷気を留めることはできず、彼の身体は冷え切っていた。
傘も差さずに道を行くが、アテがあるようには見えずただ上へ登るのみ。獣道の続く限りはと泥を踏む。
立ち並ぶ木々は部外者の侵入に腹を立てて葉を鳴らし、覆いかぶさって威嚇(いかく)する。
そうやって永久に続くかと思われた木々のトンネルだったが、ふと彼が顔をあげた瞬間、応えるように視界が空けた。
姿を現したのは、映画や漫画でしか見たことのないような分かりやすい洋館だった。
目にすれば、そういったものに縁がなかった彼は呆気にとられるほかない。
数秒をもって硬直から逃れると、引き寄せられるようにして館へと、一歩、また一歩と歩を刻んでいく。
玄関は雨をしのぐには十分すぎる屋根が手前に伸びており、家の顔ともいうべき場所でそうすることにためらいはあったが、青年は身に染む雫に耐え切れず、身を寄せることにした。
屋根の切れ端から空を覗き込み天気の具合を確かめて、背後を顧みる。
人が出てくれば説明しておけばいいだろうという考えもあるにはあった。
だが楽観というものは、本当にその状況に直面したときに急に消えてしまうものである。
「──あら?」
だから聞きなれぬ声を背中に聞いたとき、肩は震え、心臓は一つ大きな鼓動を打った。
まさか、と思いながらも無視するわけにもいかず、青年はばつの悪そうな表情を作り、言い訳を頭で練り上げながら振り返る。
しかし口を開くことはできなかった。
「どうかしましたか?」
彼が目にしたのは優美な物腰の淑女(しゅくじょ)で、それだけならば助かったと安堵(あんど)も得ただろう。
だが彼女の首から下が、彼に二の句を失わせていた。
服装はそれこそ作り話でしかお目にかかれそうにはない、藍を基調にしたシックなデザインで、エプロンを重ねたそれはエプロンドレスといわれるものだ。そしてそれで身体を包むのはメイド、あるいは女中と呼ばれる。
前時代の遺物のようなこの建物には相応しいと言えなくもないが……。
そこまで考えてようやく、いつまでも黙っているわけにはいかないということに気がついた青年は口を開いた。
「すみません。少し雨宿りをと思ったのですが、よろしいですか?」
恐々とした問いではあったが、女中はすぐに柔和な笑みを浮かべた。
つられるようにして青年も肩の強張りを緩めると、彼女は身体をずらして扉を手で示し、
「かまいませんが、そのままでは風邪をひいてしまいます。中に入ってはどうですか?」
「いえ、さすがにそれは悪いですから」
「ですがそのまま放っておいたのでは、私は主人の顔に泥を塗ることになってしまいます」
困り顔としてはわかりやすく眉根を寄せた女中に青年は同じ表情で返し、二度目の断りを入れる。しかしながらその返答も同じもので。
幾度かそのやり取りを経て、女中は小さくため息をつき、青年の隣に立って彼を見上げた。
「では、少しお話でもどうでしょう?このとおり、この屋敷はこんな山奥にありますから、外からの情報は伝わりにくいんですよ」
「……わかりました」
これくらいが妥協案だろうと青年は肩の力を抜くと、女中の服が濡れるのを気にして屋根の内側へと退く。
改めてみれば女中は都会に染まらぬ美しさを備えていて、少し気恥ずかしさを感じた青年は顔を逸らした。
その機微を知ってか知らずか、彼女は微笑んでから彼に呼びかける。
「それで、ここへはどういう経緯でいらしたので?」
「えっと……この近くの旅館に世話になるつもりだったのですが、いくら歩いてもたどり着けず。荷物も全て預けてしまって地図もありませんし」
「あら。それでしたら麓(ふもと)を挟んで、こちらとは反対側の道を抜けた場所ですよ」
照れくさそうに説明した青年の表情が、とんだ勘違いに気付かされてしかめられた。
その反応を楽しむように、女中が笑い、しかめ面は困り顔に。
「あの、笑い事じゃないんですが」
「ああ、すみません。ですが、今時ここまで迷われる方も珍しいので。道に迷うのは女性の性とも思っておりましたし」
「それは偏見ですので是非改めてください」
軽い言い合いに青年が落ち着いたのを見ると、女中は話を落ち着けるように声音を戻す。
「ですが三連休をもったいないですね。学生さんですか?」
「ええ。一応大学で理工学を学んでいます」
「まあそれは。お偉いんですね」
「いえ。たいした大学じゃありませんから」
ご謙遜(けんそん)を、と社交辞令に区切りをつけると、それからは青年の大学での話と相成った。
青年の話は別段特別なこともない大学生活だというのに、女中はその一つ一つに物珍しさと好奇心を露(あらわ)に言葉を返していく。途中から青年も話すことが楽しくなってくるほどに、彼女は聞き上手だった。
やがて話が一区切りつくと、二人は思い出したように、暗くなった空を見上げた。
屋根の切れ端からは雨水が滴り、降り注ぐ雨粒はとどまることを知らずに、まるで遣らずの雨のように壁を作る。
女中は視線を下ろし、
「やはり、しばらくは止みそうにありませんね」
呼びかけに、しかし青年は口を開きかねた。ここで頷いてしまえば、彼女に彼を屋敷へ誘う口実を与えてしまうだろうと考えたからだ。
とはいえ返答がなかったところで、案の定、彼女は困ったように提案した。
「雨の止む気配もありませんし、やはり屋敷にお入りくださいませ」
「……ですが」
反論も頭に浮かばぬまま言葉を紡ぎ、故に切れ端が見えたのはすぐだ。
彼女はこれ幸いと青年の手をとり、
「この辺りは地盤の緩いところもございます。万が一にでも崩落に巻き込まれればこちらの目覚めもよくありませんし、雨が止むまで宿ってはいかがでしょう?」
引かれてしまえば、彼も流されざるをえなかった。
「わかりました。では、雨が止むまでよろしくお願いいたします」
「ええ。では、こちらへどうぞ」
女中は安堵を表情に滲ませて、しかしあくまで冷静なまま、気を遣うように青年の手を離すとドアノブに手を掛けた。
そして一拍、思い出したようにドアノブから手を話して青年へと向き直り、
「そういえば、自己紹介が必要ですね」
ああ、これがこの人なんだな、と思わせるような柔和な笑みを浮かべ、彼女は告げた。
「私の名前は蓮条(れんじょう)千郷(ちさと)といいます。どうか千郷とお呼びください」
「懐月(かいげつ)明(あける)です。千郷さん」
「……あの、千郷では駄目でしょうか?」
「初対面の相手を呼びつけにするのは抵抗がありますよ」
仕方ありませんね、と柳眉を下げて、千郷はドアに手を掛けた。
重厚なドアに一条の切れ目が入り、やがて帯は広がり、屋敷は二人を飲み込んだ。
扉が、閉じる。
───暗転。
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