後日談(unknown day)

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 空は広い。
 どこまでも澄み渡る青の色は、時折かき交ぜたような白をこぼして彼女に覆いかぶさっている。
 正確には、この星全てを包み込んでいる。
 仰ぎ見たそれに微笑を浮かべ、彼女は摩耗した部品を交換するために近くの町へと立ち寄った。町と言うよりは露店の寄せ集めといった方が正しいかもしれない。廃墟を無理に改装して、軒先に店を出せるようにしたものがほとんどだった。
 ここには、彼女のことを知らない人間はいない。
 立ち寄った彼女は、そのことに酷く驚いていた。誰もが彼女を笑顔で迎え入れ、求めていた部品も無料、更には機械屋にメンテナンスまで行ってもらうというオマケ付きだ。彼女でなくとも、思わず開けて口元を手で覆うだろう。
 一通り部品の換装を終えると、彼女は首を傾げ、メカニックに訊ねた。
「あの、どうして私にここまでのことをしてくれるのでしょうか?」
 道に迷った子どものような表情に、中年のメカニックは間の抜けた声を漏らした。
 やがて彼の表情に理解が浸透するにつれて、快音が声量を増して口から溢れだす。
「ははは!なんてこった。我らが天使様は自分のことを分かってらっしゃらないってか!」
 ひとしきり笑って、彼は目もとの涙をぬぐう。
「ほら。こいつんとこに行きな。捨ててねえんなら、理由を持ってる」
 そう言って彼女が手渡されたのは、ここからさほど遠くないコンビニの住所だった。今は野菜売場になっているようで、動かない自動ドアは破られて、目印になる暖簾がかけられているらしい。
 紺色の暖簾を探しながら歩いていると、彼女はすれ違う大人や子どもたち、果ては老人にまで話しかけられたり、拝まれたりしていた。
「まあ、もうすぐ分かることですしね」
 戸惑いながらも、言い聞かせるように歩を進める。
「まだこんなに、人は残っていたんですね」
 周りを見回しながら、彼女はわずかに頬笑みを浮かべる。屈託なく笑う顔は、穏やかだった。
 苦労したものの顔、と判ずるには簡単だが、彼女はこれでも機械人形だ。それも、試作機となるものを除けば世界で初めてであろう作品。時が時なら世界中でアイドルのように、あらゆるメディアで紹介されただろうが、生まれる時代と作られるに至る意図はそれを望まなかった。
 戦時中に望まれる屈強な機械。いずれ人間を介さない戦争を実現するために。
 くだらない妄執に取りつかれた上層部の命令で、そんなことを望まない博士が作り上げたもの。
 到着した八百屋で受け取った雑誌の表紙裏には、そう書かれていた。
「あの、これは?」
「んあ?それ、アンタだろ」
 レジに腰かけた中年の男性は、ふかしたタバコで雑誌を示した。
 本は雑誌ではなく、写真集だった。二ページ目以降は、戦闘をしている何かの姿をとらえた写真が続いている。どれもバーニアをほとばしらせ、まるで羽根が生えた天使のように空を舞っている。
 表紙を改めれば、無駄にゴシック調を意識した文体で、戦場の天使と書かれている。
「だっさいネーミングだろ?でもな、誰もその事実は否定しねえ。アンタは確かに戦場の天使だ。そんな写真集が米と引き換えになるくらい、俺たちにとっては希望なんだよ」
 やや興奮気味の男性とは違い、彼女は眉根を寄せ、雑誌を眺める。
「……誰がこれを作ったんでしょうか?」
「あんたのファンだってよ」
 煙草をくわえた口端を楽しそうに吊り上げて、彼は彼女の手から雑誌を取り上げ、裏表紙を眼前に差し出した。
 編集者であり、写真家として書きとめられている名前に、彼女は目を丸くした。
「どーしたの、てんしのおねーちゃん」
 小さな子どもが、彼女の足を掴む。まだ六才になるかならないかの年齢に見える。
 急にしがみつかれ、慌ててバランスを取る彼女に、店主は言った。
「そいつも、俺も、あんたのおかげで生きてるんだ」
「……そう、ですか」
 困ったような笑み。店主はそんな彼女を見て力なく笑うと、肩をすくめ、呼びかけた。
「みんなに向けられる笑顔に慣れないか?」
 足元の子どもが不思議そうに彼女を見つめる。遊ぼうとせがむ少女の頭を撫でてやって、彼女は頷いた。
 店主は大きなため息をつくと、頭を掻く。 
「どいつもこいつもな、アンタに何かしてやりたいんだよ」
 本人は気付かないかもしれないけどな、と呟き、
「アンタはそれだけのことをしたんだ。胸張って歩きな」
 そう言って、彼はガラにもねえ、と頬を赤くしながらそっぽを向いた。
 同時に、彼女は何かを理解したように、一度目を見開いてから、
「少し、時間をいただいてもいいですか?」
「ん。ああ。どうしたんだ?」
「いえ、ちょっと待っていただきたいだけです」
 言うなり、すぐさま撓んで、更には擦り切れた手帳を取り出した。
 広げて、書きだす。まるで今すぐにでも、書かなければならないことが消えてしまうかのように、何かを書き出していく。
「なにやってるの?」
 覗き込んでくる少女に微笑みかけて、彼女は最後の一行をしたためる。
「日記帳よ。昔からやっているの。そして、これでおしまい」
「……そんなに急いで、何書いてたんだ?」
 分かったような顔で、腕を組み、店主が訊ねると、
「私の目的と、全ての答えです。私には、わからないことが多すぎましたから」
 日記を閉じ、付属のボタンで留めてから、彼女はそれを差し出した。
「その雑誌と交換で、いかがでしょうか?」
 小首を傾げて、そのままを絵にして取っておきたいほどに極上の笑顔を浮かべる。
 ただ店主は心底困ったように両手を見せて、
「いや、待て。そんなもの受け取れん。アンタにとって大切なもんだろ?」
「ええ。ですが、その雑誌ほどではありません」
 二度目の笑顔は、店主にとって脅迫に見えた。
 彼は差し出していた掌を上にあげる。
「オーケー。降参だ。けどな、さっきも言ったと思うが、俺らはアンタに何かしてやりたいんだ。だから、こいつはタダでやる」
「それは……」
 押しの強い態度も一変、急に戸惑い始める彼女は、元来気の強い性格ではないのだろう。
 そんな少女が戦場では一騎当千だと思うと、店主の顔にも苦笑は浮かぶ。そしてだからこそ、皆は彼女を好きになれるのだろう。
「なに。俺はアンタのファンでね。そいつは貸し出し用。まだ観賞用と保存用が残っ」
「ぱぱ。うそはだ」
 神がかった勢いで、店主の掌が少女の口元を封じた。むーむー、と暴れる少女は可愛らしかったが、恐縮することに変わりはない。いや、彼女の目つきはむしろ責めるような半眼だ。
 店主は額からわずかに汗をこぼし、少女を解放して抱き抱え、
「わかった。んじゃ名前教えてくれ。俺たちみたいな中年が天使様なんて言うのは恥ずかしすぎてね」
 嘘ではない。それもまた事実であることをうかがえる瞳の色だから、彼女は頷いた。
「冬羽。冬に羽で、とう、と読みます」
「……似合うような似合わんような。名付け親の顔が見てみたいね」
「目の前にありますよ」
 悪戯っぽく笑う彼女に、店主はへ、と今度こそ間の抜けた声を上げて、一本取られたと額を叩いた。
 雑誌を受け取って店から飛び出し、彼女は外を目指した。もう呼びかけられる声には戸惑わず、まっすぐ見据えて笑顔を送る。きっとこの人たち一人一人の中に、冬羽がいる。
 それだけで、彼女は自らの存在に意味があったのだと実感できた。
 人は、一人では意味がないのだ。
 雑誌をめくる。最後のページには、いつの間に撮ったのか、荒野の上、青空の下でぼんやりと立ち尽くす彼女の姿があった。
 タイトルは、電気羊に青空を。
「写真はいいのですが、タイトルのセンスがありませんね、博士」
 この先は戦場。しかし、いつかは終わるでしょう。
 それまで彼女は、多くの人たちの中に残れるよう、空を駆ける。
 最後に、冬羽は日記の末尾に書きとめた文字を思い浮かべる。

 それでは、本日の行動を開始いたします


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