何もいらないと思った。
手にしたものを失い、ただ残るのは希求(ききゅう)の精神。
どうすれば俺は満たされるのか。
───疲れたから、だから俺はそれすらも手放した。
■Red tint
耳に、一つの音が聞こえていた。
それは雨音だ。
わずかに白く煙(けむ)る視界の中、その連(つら)なりは驚くほど町並みに溶け込んでいる。
そう。彼女の世界に、白い幕(まく)を下ろしている。
屋根に守られない路地にいる彼女は、無感情なエメラルドの瞳と髪、そしてところどころが破けたゴシック調のドレスを水にぬらし、水を含んだ重みに囚(とら)われたかのように動かない。
視線を注ぐ。雨に冷やされた石畳に拒絶されている、彼女は視線を自分の腕へと変えた。
薄汚れた腕。頬を置けば、規則的な刻みの音が伝わってくる。
それはまた、身体を構成する歯車が、彼女に休むことを許さない音でもあった。
在る場所を捨てた彼女には行く場所(アテ)が無い。だからすることも意味もなく、ただここで朽ち果てようとしているのに。
もし活動のみを求めるのであれば、大通りに向かい、嗜好品(しこうひん)として自分を買ってくれる人間を探せばいい。
「けど──」
籠を抜けられた鳥は、もう一度似た場所へ戻ることを欲しはしない。
おそらく刻(とき)は夜。雲に覆われた空では判別が難しいが、冷たくなった空気とわずかに暗くなった雲の色に、彼女はそう感じていた。
そして──ぱしゃり、と。
爆(は)ぜる音が聞こえ、彼女は視界を前に落とす。
彼女と同じく薄汚れた、作業着と思しきズボン。
ふと腕を見れば雨は止まり、彼女に染み入るのを止めている。
理解すべく顔をあげれば、面倒そうな顔が見えた。その口元には火を灯さないタバコがあり、更に顔をあげれば黒い傘が空、そして雨をより暗く遮っている。
一つ目の疑問はすぐに氷解する。彼を見れば、やや無精ひげが生えているものの年は若く、しかしそれ故に彼女は追加で疑問を抱く。
彼女のような存在を買い取る好事家(こうずか)であれば、財産面からそれなりに年はとっていることが多い。少なくとも彼のように作業着などは着ていないし、別の線、好事家のよこしたものという可能性も同じくない。
そして好事家に関わりがないというならば、薄汚れた人形に話しかける意図が分からない。
それこそ、彼女の関係者でもない限り。
まさか、とその最後の可能性を掴む直前、
「・・・・・とっとと家に帰れ」
聞こえたのは、思考を否定する、単調かつ単純な一言。
分かりやすいその意味とは裏腹に、彼の意図は彼女の理解の届かない場所にある。
訊き返そうと彼女が発声機構を駆動させようとすれば、またそれに先んじて彼は二の句を告げた。
「そんな服装だ。どっかのお嬢様だろうが、家出は感心しないな」
言い切って、彼は傘を差し出した。
だが彼女は座したまま、ぼんやりと彼を見上げるだけだ。
瞳に浮かぶのは、不理解という当惑だ。
聞いていた世界と異なった世界がここにある。彼女のスコア(しんぞう)は齟齬に軋みを上げ、それを埋めるために新しい旋律(じょうほう)を書き込んでいく。
そのラグが、彼には拒絶に映ったらしい。
「・・・・・ま。強制はしないが」
ため息と台詞を落とし、彼は傘を手に背を向ける。
しゃがみこんだままの、彼女を置いて。
まるで否定されるような背中に抱く印象は一つだ。
置いていかれる。
感情の存在しえないスコアは、焦燥(しょうそう)という想いを理解できない。
だからそれは手がかりをなくすという仮定に変換され、何かの行動をとらせようと彼女の背を押した。
「あ・・・・・」
動きとして表れた音は、しかし雨の喧騒に遮られ、もはや離れた彼に届くことはない。
二次的に伸ばした腕も、それに流されて地に落ちる。
叩きつける雨が、勢いを増した気がした。
追いかければいい。そう考え四肢に力を込めようとするが、彼の姿はどこにも見当たりはしない。
それだけで、まるで発条(ぜんまい)が切れてしまったような空洞。理解できない空白に力が抜けるが、動かなければ自己の全てが意味をなくす。
それだけは、認めることができない。
意味を求めようと、そう決めたのだから。
立ち上がる。長時間座(ざ)したままだった身体は急な動作に不満をぶつけてくるが、各部品にひずみが出るほどではない。
完全に立ち上がると、座っていたときは空気に触れていなかった部分が差し込む風に冷却された。
思考するには適当な涼しさ。頷き、実行する。
まずは彼の言葉を回想し、適切な帰結を導き出した。
「家出するな──」
そして、
「家に帰ること──」
どちらも結局は同じ意味だ。
しかし自分の帰る場所は存在しない。だから彼女は在るための場所を探すことにした。
彼の言う通りにすることで、人との繋がりを得る。
そうすれば、また彼のような人に出会えるのだろうかと、そう考える自分を微笑(エラー)で彩りながら。
彼女は路地を後にした。
■Waltz to E.T.A Hoffmann.
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スコア:この街で何かを動かすのに必ず必要な、機械で言うエンジンのようなもの。燃料の宝石は魔力の源泉になっている。それによって動かされる歯車が無数にある本体の歯車に噛み合って一つの機能を生み出す。同調させるために全てを燃料の宝石と同じもので造る。
彼女のような存在:自動人形。発条によって駆動し、スコアを心臓に動作するもの。本来はスコアに感情を旋律として登録しておくことで感情を持たせるのだが、彼女のように感情を登録していない人形もまた存在する。
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